学長、帝塚山大学

2021年7月15日

第9回 図書館の貴重書 - 源氏物語『光源氏系図』(帝塚山大学本)

源氏物語は日本が誇る古典文学の代表作です。日本の古代では中国からの漢字が用いられていましたが、奈良時代になると、漢字を用いた万葉仮名が発展しました。万葉集では、この万葉仮名を用いて和歌などが記されています。やがて、平安時代になると、平仮名や片仮名が発達してきます。

平仮名は女性貴族によく用いられたとされており、今回紹介する紫式部の『源氏物語』や清少納言の『枕草子』などが平仮名で書かれました。現在のように、活版印刷などありませんでしたので、当時の作品は、一点ずつ筆写で、主として貴族の間で広まっていきました。源氏物語が文献に初めて登場するのが1008年です。桓武天皇が奈良から平安京に都を移したのが794年で、源頼朝が征夷大将軍に任命され武家政権の鎌倉幕府となるのが1192年ですから、平安時代中期に書かれたことになります。

源氏物語は、主人公の光源氏の生涯を通して、平安時代の貴族社会を描き出した物語であり、当初は貴族間で、やがて民衆の間でも人気となっていきます。物語では、主として和歌を通じて貴族の男女のコミュニケーションが行われており、万葉集、古今和歌集を基礎として、国風文化を花開かせたと高く評価されています。また、名古屋の徳川美術館と東京の五島美術館が所蔵する平安時代末期に描かれた現存最古の『源氏物語絵巻』は国宝に指定されています。こうした絵巻をはじめとする絵画作品も、世間の人々に源氏物語の魅力を伝えることに貢献したのでしょう。

本学図書館には、この源氏物語の帝塚山大学本『光源氏系図』(図1)が所蔵されています。この系図は、12、3世紀ごろの最古の源氏物語系図を17世紀頃に書写したもので、最古の古系図である九条家本源氏物語系図に最も近い系図として資料的価値がとても高いものです。本系図は、書物の装丁としては古い形式の巻子本(かんすぼん・・書写した紙を横に長くつなげた巻物)で、大きさは天地30.5センチ、幅(長さ)956センチ、表紙は紺地で表紙見返しには金地に金銀箔が施されています。帝塚山短期大学時代の1992(平成4)年に購入したものです。源氏物語千年紀の2008(平成20)年には、京都文化博物館で開催された「読む、見る、遊ぶ 源氏物語の世界」に本系図が出品展示されています。源氏物語には登場人物も多く、人物の名前も変遷し官職で呼ばれることも一般的でしたので、後世の人々はこうした系図に基づいて、物語の登場人物の人間関係を理解していました。そして、学術的には、これらの系図に基づいて、源氏物語の普及に伴う変遷を推定することもが可能となります。

本系図そのものは貴重資料ですので学生が自由に手に取って見るわけにはいきませんが、系図を冊子にした『光源氏系図 : 帝塚山短期大学蔵 影印と翻刻』(清水婦久子編)(図2)が発行されており、図書館に所蔵されています。清水先生は本学文学部名誉教授であり、源氏物語をご専門として多数の著書や論文があります。

本学の東生駒および学園前図書館には、清水先生の著書をはじめ、源氏物語に関する多くの資料や書物が収蔵されています(図3)。本エッセイでは、『源氏物語の真相』を参考にさせていただきました。『源氏物語』の原典を読むことは、専門家以外では難しいですが、近現代の現代語版をはじめ、漫画『あさきゆめみし』(大和和紀作)(図4)などもあります。また『源氏物語』は全54帖ですが、第22帖の玉鬘(たまかずら)では、奈良(長谷寺)が登場する場面もありますので、あまり敬遠せずに古典文学の世界に飛び込んでいただきたいと思います。

なお清水先生は、「奈良で源氏物語」と題するHP<http://www.hikariyugao.com/>を運営されていますので、こちらも参考にしてください。

参考文献
・清水婦久子(編)『光源氏系図: 帝塚山短期大学蔵 影印と翻刻』(和泉書院, 1994)清水婦久子『源氏物語の真相』(角川選書,2010)
・秋山虔・室伏信助(編)『源氏物語必携事典』(角川書店,1998)
・鈴木日出男(編)『源氏物語ハンドブック』(三省堂,1998)

※図4の画像については出版社からの掲載許可を得ています。

学キャンパスには、数多くの樹木があります。大阪市立大学名誉教授で帝塚山学園の学園長も務められた高田英夫先生は植物学の権威であり有り、大阪市立大学理学部附属植物園(現大阪市立大学附属植物園 大阪府交野市私市)から約1万本の樹木の寄贈を受けて、キャンパスを豊かな樹木で整備されました。とくに東生駒キャンパスの樹木の数と種類(約200)は、植物園として通用するほどとわれています。

 

私の好きな樹木のひとつに、5号館から図書館や7号館(情報教育研究センター)に抜ける自動ドアを出たところにあるセコイヤがあります。セコイヤに出会う出合う ものの場合は出合う。特別な思いがある場合は出会うも可)ルートとして、7号館から西にある階段を上りきったところで左手を見るとを見ると、大きなセコイヤの木が見えます(写真1)。セコイヤは北米などに分布する巨大樹で、日本でも化石として数多く発掘されています。このセコイヤが植えられたのは、大学が共学化(共学化されたのは87年です)され、大学の男女共学化1987年)に向けて当時の経済学部棟(現4号館、5号館)が建設された1986年(昭和61年)です頃と推定されます*(高田,2002引用元)。今は高さが26mという巨木になり、風格が漂ってきました。

 

バス停前のにある時計台の先にはレイランドヒノキ(写真2)とメタセコイヤ(図3)があります。レイランドヒノキはアラスカヒノキモントレースギの交雑種です。メタセコイヤ京都大学の三木茂氏による化石調査により1941年の論文で新属として命名されていますが、1946年に中国四川省生育しているメタセコイヤが発見されました。その後、アメリカの研究者が苗を持ち帰り日本1949年に苗木と種子が寄贈されました。記録によると、カルフォルニア大学チェイニー教授から皇室に、ハーバード大学メリル教授から東京大学に送られたとあります。

 

メタセコイヤの和名はアケボノスギです。セコイヤはメタセコイヤから生まれたのですが、メタセコイヤが落葉樹であるのに対して、セコイヤが常緑針葉樹というのが興味深いですね。昭和天皇はこのアケボノスギを愛され、1987年(昭和62年)の歌会始において、和歌を詠まれています。

 

わが国のたちなり来し年々に あけぼのすぎの木はのびにけり

 

戦争で大きく傷ついた日本が、戦後に再び立ち直って発展していった姿を、アケボノスギの成長と重ね合わせた内容です。

 

メタセコイヤについては、滋賀県高島市マキノ高原や大阪市花博記念公園鶴見緑地の並木が有名ですが、ご近所の京都府精華町けいはんな学研都市の精華大通りで1.5km続くメタセコイヤ並木も見事です。本学のメタセコイヤはまだ樹齢が若く、それほど目立ちませんが、これから10年後、20年後には素晴らしい樹木に成長して、学生たちを見守ってくれるでしょう。

 

大学創設の1964年(昭和39年)当時から大学にある樹木としては、食堂から5号館への階段を上ったところにあるアカマツが代表です(写真4)。開学当時は現在の通用門の近くに右が正門があったようです。  今でも帝塚山大学附属博物館と通用門の付近には門から校舎へと続く道沿いにアカマツの木が何本もあります。植えられていたようです 。博物館の左手を降りていく旧正門の小道が残っており、道沿いにアカマツが少しだけ残っています。また、

 

このように、東生駒キャンパス内には多様な樹木があります。春や夏の花々も良いですが、

秋には通用門に降りていく道路沿いのイチョウ並木が私たちの心を和ませてくれます(写真5)。

 

分かりやすいように、キャンパス地図上に、図の番号を載せておきます(図6)。学生の皆さんも、時間を見つけてキャンパスを散策され、季節ごとのキャンパスの風情を樹木や花々から感じとって下さい。

 

参考文献

     高田英夫 「大学の森 第7回 セコイヤ」(大学通信「帝塚山」, No.12, 2002

     斎藤清明 メタセコイヤ中公新書, 1995

     生物学御研究所(編) 皇居の植物(保育社, 1989


 [安田 政志1]門の位置?鈴木さん?

 [多賀 久彦2]富雄からの道が正門:今の通用門で良いですか?

 [鈴木 依子3]もともと松林だったのだと思います。

図1 帝塚山大学本『光源氏系図』(17世紀頃)

図2 清水婦久子(編)『光源氏系図』(和泉書院, 1994)

図3 大学図書館(東生駒)の源氏物語コーナー

図4 『あさきゆめみし』大和和紀(講談社, 2001年版)