学長、帝塚山大学

2021年6月3日

第4回 学園前キャンパスを取り囲む美術館たち

学園前キャンパスは、全国の私立大学でも珍しい駅前キャンパスとなっています(図1)。さらに、この学園前駅は特急電車も停車し、近鉄の中でも拠点となる駅のひとつです。なぜこのようなところに帝塚山大学が存在しているのでしょうか。 

帝塚山学園は1941年(昭和16年)4月に奈良の地に旧制の男子中学校を創設しました。戦後になり、学園では、学制改革による新制中学校が1947(昭和22)年に、新制高等学校が1948(昭和23)年に、幼稚園と小学校が学園創立10周年記念事業として1951年(昭和26年)に開設されました。そして、同時期に近鉄により学園前駅を中心に学園前住宅地として宅地の造成整備が行われたことに伴い、帝塚山学園は近隣地域の子ども達の教育機関として発展していきます。 

その後、1961年(昭和36年)に短期大学が開設され、それを母体として、2004年(平成16年)に帝塚山大学学園前キャンパス(心理福祉学部、現代生活学部)が誕生します。 

都市型駅前キャンパスであり、かつ幼稚園から中学・高校という学校まで同じ敷地内に併設されているため、大学学園前キャンパスでは建物が密集し、東生駒キャンパスと比べて手狭で緑も少ないのが現状です。しかし、学園前キャンパス近辺を少し歩くだけで、多くの素晴らしい美術館たちが存在しています。

学園前キャンパスの少し東側、蛙股池(かえるまたいけ)に面して、大和文華館(やまとぶんかかん)があります(図2)。この美術館は近畿日本鉄道の創立50周年を記念して、1960年(昭和35年)10月に開館しました。美術館の所蔵品は2000件を超え、その中には国宝4件、重要文化財31件が含まれています。実は、終戦直後の1946年(昭和21年)に、当時の近鉄社長の種田虎夫(おいたとらお)氏が、日本文化の素晴らしさを世界に向けて発信できる施設を沿線に作るために、「財団法人大和文華館」を設立して、美術史学者で初代館長となる矢代幸雄氏に東洋工芸美術品の収集を依頼されたのが始まりです。建物よりも美術品の確保を先行させた訳で、財団設立から開館まで14年の歳月を要しています。

鑑賞のための美術館、美のための美術館として、最も重視したのが自然との調和でした。矢代氏は東洋の美術は、「自然の額縁」のなかにおいて一番美しく見えると考えていました。この理念を受けて建物を設計したのが、日本芸術院会員、吉田五十八(よしだいそや)氏で、建物と自然光を取り込む展示空間の広がりを実現しています。周りを囲む文華苑という庭園も見事で、季節ごとに様々な花々を楽しむことができます。

大和文華館の南側には、同じ蛙股池に面して、近代日本美術(洋画、日本画、版画、彫刻)のコレクションを有する中野美術館があります(図3)。中野美術館は、中野皖司氏を創設者として、氏が約25年間収集した美術品の寄贈を受け、1984(昭和59)年3月に開館しました。館内のラウンジからは蛙股池を隔てて大和文華館の庭園と建物の景色が楽しめます。

学園前駅から北に向かうと、大渕池に面して松伯(しょうはく)美術館があります(図4)。とくに、上村松園(しょうえん)・上村松篁(しょうこう)・上村淳之(あつし)三代による寄贈作品を中心とする日本画コレクションが有名です。松園氏は女性初の文化勲章受章者で有り、その息子の松篁氏も文化勲章受章者です。この美術館は、近鉄の社長・会長を長く務めた故佐伯勇近鉄名誉会長の旧邸の一角に建設され、上村三代の作品の寄贈と近畿日本鉄道の基金により、1994(平成6)年3月に開館しました。

学園前の地には、こうした美術館たちが点在しており、移動も便利ですので、学生の皆さんも時間を見つけて、ぜひ訪問してください(図5)。

※新型コロナウイルス感染拡大防止により開館スケジュールが変更になる場合もあります。
 来館にあたっては、各館のWebサイトを確認するようにしてください。

・大和文華館 https://www.kintetsu-g-hd.co.jp/culture/yamato/

・中野美術館 http://www.nakano-museum.jp/

・松伯美術館 https://www.kintetsu-g-hd.co.jp/culture/shohaku/


参考文献 
『近畿日本鉄道 100年のあゆみ』 
『帝塚山学園70年史』 
『奈良に育まれ電車にのって青山をみる』(山口昌紀, 2015

(協力)大和文華館、中野美術館、松伯美術館

学キャンパスには、数多くの樹木があります。大阪市立大学名誉教授で帝塚山学園の学園長も務められた高田英夫先生は植物学の権威であり有り、大阪市立大学理学部附属植物園(現大阪市立大学附属植物園 大阪府交野市私市)から約1万本の樹木の寄贈を受けて、キャンパスを豊かな樹木で整備されました。とくに東生駒キャンパスの樹木の数と種類(約200)は、植物園として通用するほどとわれています。

 

私の好きな樹木のひとつに、5号館から図書館や7号館(情報教育研究センター)に抜ける自動ドアを出たところにあるセコイヤがあります。セコイヤに出会う出合う ものの場合は出合う。特別な思いがある場合は出会うも可)ルートとして、7号館から西にある階段を上りきったところで左手を見るとを見ると、大きなセコイヤの木が見えます(写真1)。セコイヤは北米などに分布する巨大樹で、日本でも化石として数多く発掘されています。このセコイヤが植えられたのは、大学が共学化(共学化されたのは87年です)され、大学の男女共学化1987年)に向けて当時の経済学部棟(現4号館、5号館)が建設された1986年(昭和61年)です頃と推定されます*(高田,2002引用元)。今は高さが26mという巨木になり、風格が漂ってきました。

 

バス停前のにある時計台の先にはレイランドヒノキ(写真2)とメタセコイヤ(図3)があります。レイランドヒノキはアラスカヒノキモントレースギの交雑種です。メタセコイヤ京都大学の三木茂氏による化石調査により1941年の論文で新属として命名されていますが、1946年に中国四川省生育しているメタセコイヤが発見されました。その後、アメリカの研究者が苗を持ち帰り日本1949年に苗木と種子が寄贈されました。記録によると、カルフォルニア大学チェイニー教授から皇室に、ハーバード大学メリル教授から東京大学に送られたとあります。

 

メタセコイヤの和名はアケボノスギです。セコイヤはメタセコイヤから生まれたのですが、メタセコイヤが落葉樹であるのに対して、セコイヤが常緑針葉樹というのが興味深いですね。昭和天皇はこのアケボノスギを愛され、1987年(昭和62年)の歌会始において、和歌を詠まれています。

 

わが国のたちなり来し年々に あけぼのすぎの木はのびにけり

 

戦争で大きく傷ついた日本が、戦後に再び立ち直って発展していった姿を、アケボノスギの成長と重ね合わせた内容です。

 

メタセコイヤについては、滋賀県高島市マキノ高原や大阪市花博記念公園鶴見緑地の並木が有名ですが、ご近所の京都府精華町けいはんな学研都市の精華大通りで1.5km続くメタセコイヤ並木も見事です。本学のメタセコイヤはまだ樹齢が若く、それほど目立ちませんが、これから10年後、20年後には素晴らしい樹木に成長して、学生たちを見守ってくれるでしょう。

 

大学創設の1964年(昭和39年)当時から大学にある樹木としては、食堂から5号館への階段を上ったところにあるアカマツが代表です(写真4)。開学当時は現在の通用門の近くに右が正門があったようです。  今でも帝塚山大学附属博物館と通用門の付近には門から校舎へと続く道沿いにアカマツの木が何本もあります。植えられていたようです 。博物館の左手を降りていく旧正門の小道が残っており、道沿いにアカマツが少しだけ残っています。また、

 

このように、東生駒キャンパス内には多様な樹木があります。春や夏の花々も良いですが、

秋には通用門に降りていく道路沿いのイチョウ並木が私たちの心を和ませてくれます(写真5)。

 

分かりやすいように、キャンパス地図上に、図の番号を載せておきます(図6)。学生の皆さんも、時間を見つけてキャンパスを散策され、季節ごとのキャンパスの風情を樹木や花々から感じとって下さい。

 

参考文献

     高田英夫 「大学の森 第7回 セコイヤ」(大学通信「帝塚山」, No.12, 2002

     斎藤清明 メタセコイヤ中公新書, 1995

     生物学御研究所(編) 皇居の植物(保育社, 1989


 [安田 政志1]門の位置?鈴木さん?

 [多賀 久彦2]富雄からの道が正門:今の通用門で良いですか?

 [鈴木 依子3]もともと松林だったのだと思います。

図1 学園前キャンパス

図2 大和文華館

図3 中野美術館

図4 松伯美術館

図5 美術館へのアクセス(地図)