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2013年8月2日(金)

【日本文化学科】学外実習で大和郡山市稗田環濠集落に行きました

 

佐保川沿いを歩く学生たち.JPG

 

 

7月13日(土)、「人文地理A」の野外授業および学外実習で、渡辺康代講師引率のもと、奈良は大和郡山市の稗田環濠集落に行きました。環濠集落とは、敵からの攻撃などから守るために周囲に堀をめぐらせた集落のことです。環濠は、こうした集落の防御のため設けられたとされますが、環濠の機能はそれ以外にも洪水の防止、灌漑、排水などと多岐にわたります。中世以降の奈良盆地には、かつて200前後の環濠集落が存在し、稗田は現存する環濠集落の代表格です。レポートや試験が近づいてきた忙しい時期であったため、参加人数は少なかったものの、よく歩き、見、聞いてくれる学生諸君の参加に恵まれました。

じりじりと照りつける太陽と蒸し暑さの中、近鉄郡山駅から元気に歩くこと約20分、稗田環濠集落に到着しました。

まずは、水をたたえた環濠沿いに亀をみつけながら、祭神・稗田阿礼を祀る売太(めた)神社をお参りしました。古事記を暗唱したと伝えられる稗田阿礼は奈良の稗田出身との説が有力です。

次に、集落の北東にまわり、鬼門から病気などの邪気を集落内に侵入させないため、北東隅の環濠を多折れに屈曲させていること、すなわち「鬼門落とし」の風水思想が稗田集落に取り入れられており、集落内部は邪気の侵入からも心理的に守られた空間になっていることを確認しました。

集落内部は迷路のような小路が入り組んでおり、これは15~16世紀といった中世内乱期における集落の自己防衛策の一つでした。中世のままの道幅の狭さを、参加者一同が体感しました。

稗田環濠の水および農業用水は、2㎞東にある広大寺池という溜池から現在も引かれて続けています。稗田の人々のために聖徳太子が築造したのが広大寺池であるとの伝承が、受け継がれているのです。

最後に、稗田の北端にまわり、佐保川に対する従前よりの堤防であった請堤の跡を確認しました。環濠集落は、請堤との組み合わせで15世紀以降の奈良盆地の地表上に登場した可能性があり、稗田の環濠は、防衛機能はもとより、洪水時には排水処理機能、平常時には生活用水機能というように、多義的な機能を有していたと考えられます。いくつもの非常事態を想定し、できる限りの普請をおこなってきた稗田集落の人々の歴史に、智恵と努力のすばらしさを感じずにはいられませんでした。

酷暑の中、文句も言わず元気に歩き通してくれた学生諸君の健闘をたたえたいと思います。実際に現地でものを見、体感し、発見することの楽しさや大切さが、参加者一同の心に残った学外実習でした。

水をたたえた稗田環濠の西側

請堤跡で撮影する学生たち