[49頁]−論  説−

 

     明治前期の改名禁止法制

 

                            井 戸 田  博  史

     目   次

     一 はじめに

     二 複名禁止令 ―選択的一人一名主義―

     三 明治五年改名禁止令

      (一) 戸籍制度と改名禁止令

      (二) 改名許可基準の緩和(T期)

     四 明治九年改名禁止令

      (一) 明治九年改名禁止令の布告

      (二) 改名許可基準の緩和(U期)

     五 改名禁止令廃止案と明治一三年太政官指令

      (一) 明治一二年改名禁止令廃止案

      (二) 明治一三年太政官指令(改名禁止緩和)

      (三) 明治一三年太政官指令の影響(V期)

     六 おわりに

 

[50頁]        はじめに                       目次に戻る 

 (1)わが国には、かつて複名と改名自由の習俗があった。人は人生の折節に名を改め、一生の間にいくつもの名を用いることがあり(本稿では、これを「タテの複名習俗」という)、また人によっては時を同じにして通称・実名などの複数の名を称した(これを「ヨコの複名習俗」という)。このように、わが国の名についての伝来の慣行は、タテとヨコの複名と改名自由ということであって、人は同時に複数の名を併称することがあり、また幾度と名を改めてきたのである(1)

 明治政府は、近代的な中央集権的な天皇制国家を早期に実現し、また流動化し複雑となった社会に対応するために、脱籍浮浪の徒を取り締まり(2)、全国民を掌握管理することが重要であった。そのためには、国民すべてを氏と名で把握する必要があった。「四民同一」「臣民一般」の国家を創出し、「全国総体ノ戸籍」の制定が急がれた。

 明治四年(一八七一)四月に「戸籍法」が公布され、翌五年から施行された(3)(以下、「明治四年戸籍法」という)。この明治四年戸籍法は、生死等の身分事項を登録していたものの(第五則)、主として徴兵、徴税、治安警察等の用に供され、行政的戸籍の性格が強かった。政府は、この戸籍を通じて、氏と名でもって国民すべてを把握しようとした。したがって、人の特定を困難にする複名と改名自由の習俗は否定されざるをえなかった。

 氏(4)については、明治三年(一八七〇)九月一九日に、「自今平民苗氏被差許候事」(5)と布告され、平民も自由に苗字を公称できるようになった。しかし、この布告はあくまでも平民に苗字の公称の自由を認めるのみであって、苗字の公称を強制するものではなかった。そこで、同八年(一八七五)二月一三日に「自今必苗字相唱可申」(6)と、平民に苗字の必称を命じた。ここに至って、国民すべてが苗字を名乗ることになった(7)

 [51頁]明治五年(一八七二)は、今日の日本人の名に大きな影響を与えている重要な布告が相次いで出された年である。五月七日に「複名禁止令 ―選択的一人一名主義―」(太政官布告一四九号)が、そして八月二四日に「改名禁止令」(太政官布告二三五号)が出され、伝来のタテとヨコの複名および改名自由の習俗は法制上否定された。生まれた時に付けられた戸籍名を本名とし、これを唯一の正式名として改めないことを当然とする今日の姿が出現した。出生時に命名された一名が戸籍に固定されることにより、政府はこの戸籍名と氏で全国民を掌握しようとしたのである。

 (2)明治五年の「複名禁止令」と「改名禁止令」は、国家による国民管理の必要から制定されたものであるが、この一片の法令で、多年にわたる複名と改名自由の習俗を廃止することは、現実には不可能であった。改名の許可を求める伺いが続出し、改名許可基準は緩和されていった。明治九年(一八七六)一月二七日に、改名禁止を緩和する太政官布告五号が出された。この法令は明治五年太政官布告二三五号以降の改名についての実態を明文化したものといえる。

 さらに、明治一二年(一八七九)には、改名禁止法令の廃止が検討されるに至った。これは実現しなかったが、翌一三年(一八八〇)一月二八日に、改名禁止を一層緩和する太政官指令が出された。

 (3)本稿は、わが国伝来の名に関する慣行を改変し、しかも今日の改名法制に影響を及ぼしている明治前期の改名禁止法制について、当時の伺い事例とそれに対する指令等の分析を通して明らかにすることを目的にしている。

 本稿でいう明治前期とは、複名禁止令と改名禁止令が布告された明治五年(一八七二)から明治民法が施行された同三一年(一八九八)までを指している。本稿では、@明治五年太政官布告一四九号と同二三五号、A明治九年太政官布告五号、Bこれらの改名禁止令廃止案とその検討結果である明治一三年太政官指令によって、明治前期を次の三期に分けている。

 [52頁]T期 明治五年〜同八年

 U期 明治九年〜同一二年

 V期 明治一三年〜同三一年

 なお、太政官布告・指令、各省各府県伺い事例については、主として外岡茂十郎編『明治前期家族法資料』(早稲田大学、一九六七〜一九七八年、以下、『資料』という)を利用した。ここに厚く謝意を述べる次第である。「〔資料紹介〕明治前期改名禁止法制資料」(『日本文化史研究』二八号、一九九八年三月、一〇六〜一二九頁)を発表しているので、あわせて参照して頂ければ幸いである。

 

(1)井戸田博史「名の固定」(『「家」に探る苗字となまえ』雄山閣出版、一九八六年、八七頁以下)。

(2)山主政幸『家族法論集』(法律文化社、一九六二年)一四一頁以下。

(3)井戸田博史「戸籍法」(日本近代法制史研究会編『日本近代法一二〇講』法律文化社、一九九二年、一二〜一三頁)。同『家族の法と歴史 ―氏・戸籍・祖先祭祀―』(世界思想社、一九九三年)五頁。

(4)氏・姓・名字・苗字などの呼称については、井戸田前掲『家族の法と歴史』三八頁、井戸田博史「家族と氏3」(『時の法令』一五五四号、一九九七年九月三〇日、五一〜六〇頁)。

(5)『資料』一巻一冊五九頁。

(6)『資料』一巻一冊二二七頁。

(7)井戸田前掲『家族の法と歴史』三五〜六九頁。

 

  [53頁]     複名禁止令 ――選択的一人一名主義――          目次に戻る

 (1)明治五年(一八七二)五月七日に、政府は太政官布告一四九号(1)で、

  従来通称名乗両様相用来候輩自今一名タルヘキ事

とした。この布告は、@通称・実名のいずれかを名とする選択的一人一名主義であり、A官員にとどまらず国民すべてを広く対象とするものであった。この禁令によって「ヨコの複名習俗」は否定され、一人一名主義が法制上確立し、今日の一名による名の固定が始まった。

 (2)本布告に至る前史(2)について、若干述べておこう。明治二年(一八六九)四月に、森有礼は、通称を廃止して貴賤上下を問わず、すべて実名のみを用いるべきであると、公議所に建議した。官名に由来する衛門、兵衛などを通称とすることは、実際の官名と異なったり、時には官名詐称ともなり問題が生じる。また某何位などと官位を通称とすることは同姓同位の者が多くなり識別が困難になるというのが、建議の理由であった。

 森建議をめぐって、時期早尚とか、士分以上・以下(ここでいう以上・以下は不正確な表現であるが、当時の表記に従った)に分けて考えるべきであるとかの意見が続出した。結局、同四月二七日に、士分以上は通称を廃して実名のみを用いることとし、その他の者については追って検討すると、森案は修正されたうえで、一六三対一一という圧倒的多数で可決された。

 この時期には政府の内外で保守反動の動きが優勢となり、明治二年(一八六九)七月に律令制にならった復古的な太政官制が採用された。「職員令並官位相当表」に基づいて作られた『職員録』では、従前の『官員録』で「木戸準一郎」式に「苗字・通称型」で書かれていたのが、「大江朝臣孝允木戸」式に「氏・姓・実名・苗字型」で記載[54頁]されることになった。律令制に由来する官職・官名が再び正式のものとなった。

 しかし、いかに王政復古を建前とするとはいえ、また律令制に復古することで中央集権化を計ろうとしても、この「大江朝臣孝允木戸」式の時代がかった氏名の表記では、流動的で複雑化した一八七〇年代の国家体制に対応できるものではなかった。そこで、明治三年(一八七〇)一二月二二日に、「在官之輩名称之儀是迄苗字官相署シ来候処自今官苗字実名相署シ可申事」(3)との太政官布告が出された。さらに、翌四年(一八七一)一〇月一二日には、「自今位記官記ヲ始メ一切公用ノ文書ニ姓尸ヲ除キ苗字実名ノミ相用候事」(4)と太政官から布告され、氏名は苗字・実名で表記すべきこととなった。在官者の名簿も、同四年(一八七一)一一月になり、『職員録』から再び元の『官員録』の名に戻り、氏名は「木戸孝允」式に苗字と実名で書かれるようになった。ここにおいて、実名による一人一名主義が実現したのである。

 族属別を否定し、居住地に基づき平準化された戸毎に「全国総体ノ戸籍」を編製して、この戸籍を通して、氏と名をもって全国民を掌握するために、明治四年戸籍法が公布施行された。そのためには国民すべてを氏と名で固定する必要があった。そこで前述の明治五年(一八七二)五月七日の太政官布告「複名禁止令―選択的一人一名主義」(5)が出された。

 (3)なお、この「複名禁止令―選択的一人一名主義」は「思い上り」(6)の布告といわれたように、その貫徹には問題があった。明治八年(一八七五)八月九日に筑摩県は、「一人両名ヲ称スルハ不相成候得共演劇其他技芸上ニ於テ別名ヲ称スル等ハ差支無之ヤ」と伺った。内務省は同年一〇月八日に「書面一人両名ハ固ヨリ不相成尤芸業上於テ別号ヲ称用スル儀ハ差支無之候事」との指令をだしている(7)

 

[55頁](1)『資料』一巻一冊一三四頁。

(2)井戸田前掲『家族の法と歴史』九四〜九八頁。

(3)『資料』一巻一冊七八頁。

(4)『資料』一巻一冊一一七頁。

(5)本布告が平民にまで適用されるかについて、布告一〇日後の明治五年五月一七日に足柄県は「平民マテ同様ノ心得」かと伺った。太政官は翌一八日に「伺之通」と指令している(『資料』一巻二冊五一頁)。

(6)高梨公之『日本婚姻法史論』(有斐閣、一九七六年)三一六頁。

(7)『資料』一巻二冊四〇一頁。なお、別名と別号については、前注書三一六頁(1)参照。

 

        明治五年改名禁止令                       目次に戻る

一)戸籍制度と改名禁止令

 (1)国民すべてを氏と名でもって戸籍により把握しようとする政府にとって、氏と名を自由に改められる従来の慣行は容認できないものであった。そこで明治五年(一八七二)八月二四日に、

  華族ヨリ平民ニ至ル迄自今苗字名並屋号(1)共改称不相成候事

   但同苗同名ニテ無余儀差支有之者ハ管轄庁ヘ可願出事

という太政官布告二三五号(2)が公布された(以下「明治五年改名禁止令」または「明治五年太政官布告二三五号」という。なお、これは昭和二二年戸籍法一三八条によって廃止された)。本布告により、国民すべては「同苗同名」の場合を除いて[56頁]改名等が禁止された。

 (2)明治五年改名禁止令が公布された理由と経緯は、以下のとおりである。当時は、複名と改名自由の習俗に加えて、「幕政ノ衰ヘタルヲ承ケ衆庶未タ堵ニ安セス其間無頼ノ徒ヲ出シ朝ニ姓ヲ異ニシ夕ニ名ヲ変シ甚シキニ至テハ一人ニシテ数名ヲ有スル者アリ往来規ニヨラス出没際リナシ良民ヲ妨害スル頗ル甚シ」(3)い有様であった。従って、「改姓名ノ禁ヲ設ケラレタルハ戸籍上ニ頼テ専ラ脱籍無頼ノ徒ヲ防キ以テ警察ノ不備ヲ補フ」(4)必要があったからである。

 そこで、大蔵省(従前の民部・大蔵の両省が合併した有力官庁で戸籍事務も担当)は、明治五年(一八七二)七月二〇日に太政官あて、次の伺いを出した。

  苗字名并屋号猥ニ為相改候テハ諸般取調方等ニ差支不都合不少候間別紙ノ通御布告有之度此段伺候也

    御布告案

   臣民一般苗字名并屋号共相改候儀ハ不軽事ニ有之候処猥ニ改称イタシ候モノ有之以ノ外ノ事ニ候以後同苗同

   名ノ外ハ改称不相成候条此旨相達候事

 この大蔵省伺いに対して、立法を議する機関であった左院は、明治五年(一八七二)七月に、大蔵省原案に異存はないが、布告案中の「以ノ外ノ事ニ候」の七字を「甚以公私差支候間」と改めることを太政官に提議した。太政官は、同年八月二四日に左院の意見に従って、「伺之通 但別紙写之通布達相成候事」との指令を出した(5)。それが前述の太政官布告二三五号である。

 身分事項の登録にとどまらず、治安警察、徴兵等の行政的機能を果たしていた戸籍等の取り調べの必要から、すなわち、「苗字名并屋号猥ニ為相改候テハ諸般取調方等ニ差支不都合」が生じることから、「明治五年改名禁止令」[57頁]が布告されたのである。

 (3)なお、全国民を対象とした「明治五年改名禁止令」の先駆をなした動きがあった。一つは、士官兵卒に対する明治四年(一八七一)九月(日欠)の兵部省一一二(6)と、もう一つは、官員に対する同年一〇月一八日の太政官布告五四五(7)である。

 これらは、軍人・官員と対象が限定されているが、特に後者は、「無余儀次第」があって「願出聞済」となれば、改姓名が許可された。これは、「明治五年改名禁止令」と、その修正である「明治九年改名禁止令」が、「無余儀差支」によって願い出た場合に、改姓名が許可されるとする法構造と同じであった(8)

 (4)「明治五年改名禁止令」の法構造は、名(苗字・屋号)の改称を原則として禁止するが、「同苗同名」で「無余儀差支」があるときには、名等の改称禁止の解除を管轄庁に願い出ることができるというものである。すなわち、「無余儀差支」は改名許可基準の一般条項である(9)。法構造からは、改氏・改名ともに例外的に許可されると解釈できるが、現実には改氏は復氏を除いては許可されなかった。

(二)改名許可基準の緩和(T期)

 (1)伝来の複名・改名自由の習俗を、国家による国民管理の必要からの一片の法令で否定することはできなかった。また、改名禁止を強制することは、「人民自由ノ権利」(10)を束縛し、「実際営業ノ不便ヲ成候事ニテハ是亦人民ノ権利ヲ妨碍」(11)するものであると認識された。

 ここで、「明治五年改名禁止令」が布告された明治五年(一八七二)から同八年(一八七五)までの改名動向をみてみよう(本稿ではT期という)。一つは(A)、明文の「同苗同名」概念の拡大である。「同苗同名」についての伺い[58頁]とその指令を通じて、その内容は拡大されていった。もう一つは(B)、明文化されていなかった改名事由の肯定である。これには、営業上の事由(B―イ)と、非営業上の事由(B―ロ)の二つがあった。

 (A)明文規定「同苗同名」の拡大

 @ 苗字名同称

 「同苗同名」とは、「苗字名両様共同称」の意味であって、「苗字或ハ名之内何レカ同称」の場合は含まれないと、明治六年(一八七三)の時点では解釈されていた(12)

 A 同苗異字名の同訓・同音

 「同姓ニテ公妙公忠ト申者有之字体相違致居候ヘ共其訓同シカ故毎々不都合儀有之」場合は、「文字ハ相違致居候ヘ共其訓同シキ廉ヲ以テ聞届」られた(明治六年九月二四日太政官指令(13))。また、同勤中の加藤庄平と加藤昇平という異字名同音の場合の改名も許可された(明治八年一〇月八日内務省指令(14))。ただし、明治八年(一八七五)四月一四日の内務省指令では、「同苗異名」「異苗同名」「同音異字」等での改名は許可されなかった(15)(しかし、これらは後述の明治一〇年二月五日の内務省指令で取り消された)。

 B 寄留先での「同苗同名」

 「当県下ノ者他県ヘ寄留中同所於テ同姓名有之差支」がある場合には、改名が許可された(16)

 C 「同苗同名」と遠近

 「同苗同名」については、その遠近(「同郷又ハ其郡内及町村内」に限らない)を問わないとされた(17)

 D 夫妻同称

 「夫妻同称ノ者改名ノ儀譬ハ夫ヲ静夫妻ヲシツヲト唱フル如キハ妻改名」と、妻の改名が許された。ただし、夫[59頁]が「直助」、妻が「ナヲ」の場合は、同名ではないとして改名が認められなかった(18)

 E 雇主(戸主)・被雇用者同名

 「同苗ニ無之候ヘ共雇人戸主ト同名ノ者ハ雇中其家限リ改名」が認められた(19)。被雇用者の改名が雇用期間中その家限りで許されるとあるが、戸籍との関係はこの指令では不明である(20)。明治二五年(一八九二)一月一一日の滋賀県照会が、「出願許可ノ上之(改名のこと、井戸田記)ヲ戸籍ニ登記スルモノトセハ其本人戸籍面ニ何誰方被雇中何々ト改名ト記スルカ如キ戸籍登記方異例ニ渉リ加之ナラス其本人解雇ノ届出ヲ為サゝルトキハ戸籍上依然改名ノ儘ナルヲ以テ其家限リノ改名ヲ許可シタルモノ」(21)と述べている。このことが、改名を「其家限リ」とした理由であろうと思われる。

 (B―イ)明文規定にない「営業上の事由」による改名―非明文の「営業上の事由」

 明文の規定はなかったが、営業上の事由からの襲名による改名は許可された(営業上の事由のない襲名は認められなかった)。これは、明文の「同苗同名」の解釈(拡大解釈)をこえた改名事由の承認といえる。以下の@〜Cの事例は、「営業上の事由」による改名である。

 @ 家督相続による父子襲名

 「戸主ノ通称ヲ以テ家名店名抔ト唱ヘ父子相承ケ累世名乗来候向家督相続ノ際其子其父ノ名ヲ襲サレハ商業其外取引等ニ差閊」えるときは、改名が許可された(22)。同旨のものに、商家の相続人が亡父名の襲名(23)、すなわち、「家督相続ノ際父ノ名ヲ襲サレハ商業其外差支」(24)、「全ク商業上ニ差支有之故ヲ以テ其亡父ノ名ヲ襲続」(25)がある。ただし、戸主未亡人の亡夫名襲名は、「寡婦戸主ニ相立而シテ商業上ニ差支候迚亡夫ノ名ヲ襲ハシムル儀ハ難相成」(26)と、否定された(27)

 [60頁]A 養子・他家相続人による先代襲名

 養子または他家相続人がその先代名を「無拠事情」で襲名したいという申請に対して、「商業産業等ニ付先代ノ名ヲ称セサレハ差支有之」ときは、改名が許可された(28)

 B 廃絶家再興者による廃絶家先代の通称襲名

 廃絶家再興者が「其廃家先代ヨリノ通称相襲不申テハ商業取引上差支ノ筋」があるときは、前述Aの「類例ニ照準」して、改名は許された(29)

 なお、襲名ではないが、C「職業の変更」として、改名が許可された事例があるので紹介しおこう。「俳優者或ハ娼妓ノ類優美灑洛ノ名前不少他日良業ニ就候節従前ノ名前相改」ることが認められた(30)。勿論、芸名は、本名のほかに別名として使うことは許されていた(31)

 この(B―イ)の明文規定にない「営業上の事由」による改名は、許可される方向にあった。しかし、次のものは改名が許可されなかった。すなわち、D士族の帰農商による改名がある。士族の帰農あるいは商業に転じた場合(複名禁止令によって、平易な通称を捨て、難しい実名を残した場合など)、たとえ営業上の不便があっても、改名は許されなかった。これは、家禄奉還に伴う「禄高帳改正等調査頗ル煩雑ヲナシ且改称被相禁候御趣意モ遂ニ相弛」ことが禁止の理由であった(32)。ただし、これはV期で緩和された。

 (B―ロ)明文化されていない、その他の事由による改名―非明文の「非営業上の事由」

前述の(B―イ)以外の事由による改名である。「営業上の事由」以外の事由、すなわち、「非営業上の事由」による改名である。それには、改名が許可された@・Aと、不許可となったB・C・Dがある。

 @出家得度・還俗による改名

[61頁]「出家得度或ハ仏道不得手ニテ帰俗許可ノ者」「於情実無拠向モ候ハゝ聞届候テモ不苦」として、改名が許可された(33)。この事案は、明治一一年(一八七八)一二月一一日兵庫県伺い(34)に「営業不便」とあり、また、同年一二月一〇日内務省伺いに対する法制局議案が「僧侶ニ改名被差許候ハ諸遊芸人ト同ク其職業上ニ於テ不得止改名ヲ要スル故アルヲ以テ之ヲ許サレタルナリ」(35)とあるので、「営業上の事由」に分類することも可能であるが、本稿では信仰上のこととして「非営業上の事由」に分類した。

 A 戸主隠居による改名

 「家族ノ者当主ニ相成既且隠居致シ候類抔於情実無拠向モ候ハハ」、父の改名を「聞届候テモ不苦」と許可した(36)

 次は改名が不許可になった事例である。

 B 錯誤による改名申請受理後の措置

 「明治五年改名禁止令」ただし書の「無余儀差支」によって改名(北条元利を謹一郎と改名)が許可され、謹一郎の名で警視庁に勤務していたが、「今更原名ニ引直シ候事迷惑ノ情実モ有之候ヘトモ」、これは「無余儀差支候儀ト申ニモ無之」ことであり、元利から謹一郎への改名許可は取り消され、原名の元利に復帰させられた(37)。なお、戸籍担当者は待罪書を提出し処分を伺った結果、許可行政を誤ったとして、「其県相当ノ処分」を受けることになった。

 C 誤解されやすい名の改名

 読み誤りやすい名の改名は許可されなかった。「本名荘平ヲ衆人庄平ト相認候ニ付宗平ト改名」「本名公朋ヲ公明ト相記事実ノ称呼ニ齟齬イタシ候ニ付公友と改名」は、際限もないこととして許されなかった(38)

 D 難読・難書の名の改名

[62頁]「名称ノ文字通俗に解シカタキモノ」の改名は許可されなかった(39)。ただしV期になると、取引上の都合という条件は加わるが、許されるようになった。

 (2)明治五年(一八七二)には、改名についての伺いは見当たらない。同八年(一八七五)までの伺いの許可・不許可の数は、次表のとおりである(一つの伺い事案のなかに複数の伺い項目を含むことがあるので、本稿では項目数で作表した)。

            許可  不許可  計

    明治 5年   0   0   0

       6年   10   2   12

       7年   6   2   8

       8年   9   3   12

       5〜8年 25   7   32

 改名許可事案は、三二項目中二五で七八%である。このT期(明治五〜八年)は、明文の「同苗同名」のほかに、明文化されていない「営業上の事由」や「非営業上の事由」が改名許可基準として順次拡大していった時期である。しかし、T期ではU期・V期に比して不許可事案が多い(これら不許可事案のなかには、U期・V期になって、改名が許可される事案が多くなる)。

 

(1)明治五年太政官布告二三五号で屋号の改称は禁止されたが、後にはその改称は自由となった。この布告が出された時期では、政府は屋号と苗字とを同等視していた(商都大阪では苗字よりもむしろ屋号が重視されていた ―『明治大正大阪市史』一巻六頁)。明治五年(一八七二)の段階では「必ス苗字ヲ唱ヒ候成法ニモ無之」、したがって「苗字ヲ唱ヒサルモノハ即チ屋号ヲ[63頁]以テ一般取引」をするものであるので、屋号を「猥リニ改称スルヲ禁止」された。

しかし、明治八年(一八七五)二月一三日に太政官布告二三号で、全国民が氏を必称することになった以上、屋号の方は「改称ノ儀人民ノ勝手ニ任セ不苦」となった(同一一年九月二六日福島県伺いに対する同年一〇月三日内務省指令、同旨のものに同二一年五月内務省回答がある)。氏も屋号もともに「家」の称号であったが、国法上、特に戸籍法上、氏が最終的に「家」の称号となった(福島利夫・利谷信義「明治以降の戸籍制度の発達」『家族問題と家族法Z 家事裁判』酒井書店、一九七四年版、三一〇頁)。

(2)『資料』一巻一冊一四〇〜一四一頁。

(3)『資料』二巻二冊上一五九頁。

(4)『資料』二巻二冊上三一三頁。

(5)『資料』一巻二冊五七頁。

(6)『資料』一巻一冊一一六頁。なお、明治五年以前の法令には第何号という固有の番号はない。明治五年前の兵部省一一二(号を付けない)は、『法令全書』の表記方法によっている。注(7)も同様である。

(7)『資料』一巻一冊一一七頁。

(8)高梨公之前掲書二六八頁。

(9)山主政幸前掲書(二九頁)は、当時のGeneral-klauselとする。

(10)明治七年八月二四日の内務省あて新治県伺い(『資料』一巻二冊二八三頁)。

(11)前注伺いに基づく太政官あての明治七年一一月一〇日内務省伺い(『資料』一巻一冊一一七頁)。

(12)明治六年九月一三日浜松県問い合わせに対する同年九月一四日史官回答(『資料』一巻二冊一一五頁)。

(13)明治六年九月二四日浜松県伺いに対する同日付けの太政官指令(『資料』一巻二冊一一七頁)。

(14)明治八年九月三日石川県伺いに対する同年一〇月八日内務省指令(『資料』一巻二冊四〇一頁)。

(15)明治八年三月(日欠)長崎県伺いに対する同年四月一四日内務省指令(『資料』一巻二冊三四〇頁)。

(16)明治七年七月九日広島県伺いに対する同年七月二五日太政官指令(『資料』一巻二冊二二七頁)。

(17)明治八年五月一五日敦賀県伺いに対する同年六月二日内務省指令(『資料』一巻二冊三六六頁)。

[64頁](18)明治八年二月五日敦賀県伺いに対する同年三月一二日内務省指令(『資料』一巻二冊三二四頁)。

(19)明治六年一〇月二九日大蔵省伺いに対する同年一一月九日太政官指令(『資料』一巻二冊一三一頁)。

(20)高梨公之前掲書(二七五頁)は、「たいへん疑問の多い指令である」とする。

(21)『資料』三巻二冊四一四頁。

(22)明治六年六月一九日新治県伺いに基づく同日付内務省伺いに対する太政官指令(『資料』一巻二冊八四頁、『資料』別巻一補遺編二六五頁)。

(23)明治六年九月四日大坂府伺いに対する同年九月一五日太政官指令(『資料』一巻二冊一一五〜一一六頁)。

(24)明治七年五月二七日神奈川県伺いに対する同年六月一二日内務省指令(『資料』一巻二冊二〇六頁)。

(25)明治八年一月九日敦賀県伺いに対する同年二月一九日内務省指令(『資料』一巻二冊三一一頁)。

(26)前注内務省指令。

(27)名に「男子ハ漢字ヲ用ヒ女子ハ和字ヲ用ユルハ本邦従来ノ慣例」としても、これは「人民ノ勝手ニ任セ不苦」とされた(明治一四年五月一三日岩手県伺いに対する同年五月二七日内務省指令、『資料』二巻二冊上五一七頁)。また、「男女名称ノ義ハ古来自ラ区別アリ」(明治一七年二月一八日石川県伺いに対する同年三月三日内務省指令、『資料』二巻二冊下一九三頁)といわれたが、男女名を明確に区別しなければならないとする法令は存在しなかった。

(28)注(22)と同じである。

(29)明治八年九月一二日内務省伺いに対する同年一〇月七日太政官指令(『資料』一巻二冊三九九〜四〇〇頁)。

(30)明治六年一〇月二九日大蔵省伺いに対する同年一一月九日太政官指令(『資料』一巻二冊一三一頁)。

(31)明治八年八月九日筑摩県伺いに対する同年一〇月八日内務省指令(『資料』一巻二冊四〇一頁)。

(32)注(10)(11)参照。

(33)明治六年八月二〇日石川県伺いに基づく同年九月一四日大蔵省伺いに対する同年一〇月九日太政官指令(『資料』一巻二冊一二〇頁)。なお、明治六年一一月(日欠)足柄県伺いに対する同年一一月二七日太政官指令(『資料』一巻二冊一三四頁)等、多くの伺い・指令がある。

(34)『資料』二巻二冊上一五九頁。

[65頁](35)『資料』二巻二冊上一七一頁。

(36)注(33)と同じである。

(37)明治七年八月二三日置賜県伺いに基づく同年六月二二日内務省伺いに対する同年七月八日太政官指令(『資料』一巻二冊二一七〜二一八頁)。

(38)注(30)と同じである。

(39)前注と同じである。

 

        明治九年改名禁止令                       目次に戻る

(一)明治九年改名禁止令の布告

 (1)明治五年(一八七二)に、政府は従来の改名自由の習俗を否定し、改名を原則として禁止した(「同苗同名」で「無余儀差支」があるときのみ例外的に改名許可)。しかし、多年にわたる改名自由の習俗を簡単に破ることはできず、毎年にわたって、多くの改名許可申請が出された。これらの伺い事案に対する指令によって、布告に規定された「同苗同名」の範囲が拡大されるととに、明文化はされていないが、「営業上の事由による襲名」など、「同苗同名」以外の事由による「無余儀差支」があるときにも、改名が許可されることになった。

 すなわち、明治八年(一八七五)三月(日欠)になると、長崎県は「但書中無余儀ノ文字ハ同苗同名に属シタル儀ニ候ヤ外事故ニテ無余儀差支候節ハ聞届不苦儀ニ候ヤ」との伺いをするに至った。これに対して、内務省は同年四[66頁]月一日に、「無余儀」とは「同苗同名」は勿論「僧尼ノ輩帰俗」、「商家ノ輩慣習ニテ……世襲ノ名ヲ用ヒサレハ商業上差支」があるときを含むと指令した(1)。この指令は、「明治五年改名禁止令」の改名許可基準を緩和拡大し、「明治九年改名禁止令」に至る過程を示す重要な内容を持っている。

 これら改名許可基準緩和の実態を明文化するものとして(2)、明治九年(一八七六)一月二七日に、太政官布告五号は、

  明治五年八月第弐百三拾五号布告但書左ノ通改正候条此旨布告候事

   華族ヨリ云々

    但同苗同名等無余儀差支有之者ハ管轄庁ヘ改名可願出事

と、公布した(3)。以下、これを「明治九年改名禁止令」または「明治九年太政官布告五号」と略称する。

 (2)明治九年改名禁止令の法構造は、明治五年改名禁止令の「同苗同名ニテ」の「ニテ」が削除され、その代わりに「等」が追加された。文理解釈上からは、明治五年改名禁止令は、「同苗同名」という「無余儀差支」があるときに限り、改氏名が許可されることであったが、明治九年改名禁止令の改名許可事由は、「無余儀差支」のみとなり、「同苗同名」はその具体的例示となった。すなわち、「同苗同名」「等」(その他)の事由によって、「無余儀差支」があるときは、改姓(4)ではなく、改名が許可される法構造となった。

(二)改名許可基準の緩和(U期)

 (1)明治九年改名禁止令が布告され、「同苗同名」に限らず、「その他(等)」の事由で「無余儀差支」がある場合には、改名が許可されるということになった。このため、U期(明治九〜一二年)の改名許可基準は、T期(明[67頁]治五〜八年)に比して、より緩和された。改名許可基準を、(A)「同苗同名」と(B)「その他(等)」に分け、さらに、(B)を(B―イ)「営業上の事由」と、(B―ロ)「非営業上の事由」に細分して考察する。

 (A)「同苗同名」

 T期の「同苗同名」の解釈には矛盾するものがあった。すなわち、「同姓・異字名同訓」(公妙と公忠)の改名は許可されたが(明治六年九月二四日太政官指令(5))、「同苗異名」「異苗同名」「異字同音」のときの改名は不許可となった(明治八年四月一四日内務省指令(6))。しかし、「同苗・異字名同音」(加藤庄平と加藤昇平)の改名伺いでは許可している(明治八年一〇月八日内務省指令(7))。

この解釈の不統一について、明治一〇年(一八七七)一月(日欠)の長野県伺いは、「一事ノ御指令二途ニ岐レ候」とその矛盾を糺した。これに対して、同年二月五日に内務省は、「同姓名ハ勿論同姓異名異姓同名ノ者ト雖トモ其言訓称呼ヲ同フシ」「実際上差支候モノ」は改名が許されると指令した。そして同時に「従前指令ノ中右ニ抵触ノ条ハ取消候」と指令し、前述の同八年四月一四日の内務省指令を取り消した(8)。「同苗同名」による改名許可基準の不統一は緩和の方向で解消された。

 その他の「同苗同名」については、「同村同業者の同姓似寄名」(三田謹吾と三田金五郎ー名前略称の風習があって商業上妨碍となる(9))、「嫁姑等同名(10)」、「後備兵同苗同名」(調査ノ際甚混雑支障ノ廉不少(11))があったが、いずれも改名が認められた。

 (B―イ)「営業上の事由」

 T期でも、「営業上の事由」による「襲名」(家督相続による営業上の必要からの襲名)は認められていたが、U期になると、営業上の必要があるときは、「家督相続による先々代(父)名の襲名」(嗣子幼少のため寡婦が戸主となった後[68頁]に嗣子が父名襲名(12))、「商業者亡長男名の父による襲名」(13)も、許可されることになった。

 U期では、さらに「漆器工ニ候処嘗テ旧名吉右衛門ヲ本名ニ改更候得共得意向都テ旧名相唱ヘ営業上支障尠カラス因テ旧名復称」はできるかという伺いに、「聞届不苦候事」と許された(14)。すなわち、営業上の都合による改名(復名)が認められることになった。

(B―ロ)「非営業上の事由」

 得度改名は、明治九年(一八七六)一二月一六日に教導職が設けられたことにより、教導職試補以上の得度者のみが許可されることになった(15)。しかしその後、試補に任ぜられた場合に限らず、「宗規ニ依リ得度式執行ノ者」の改名は許されるようになった(16)。なお、教導職制度は明治一七年(一八八四)に廃止された。

 U期における改名不許可の事案として、「養子養家通字への改名」(営業上の必要のないとき(17))、「養家通字改名後離縁による旧名(復名)」(18)、「幼名の改名」(「幼稚ノ時命名致候名称ニテハ現今不似合」(19))などがある。

 

(1)明治八年三月(日欠)長崎県伺いに対する同年四月一四日内務省指令(『資料』一巻二冊三四〇頁)。

(2)高梨公之前掲書(二七九〜二八〇頁)は、「明治九年の改正は、こういう解釈の変遷・拡張を背景にしているのであって、むしろ実務を法文化したもの」とする。

(3)『資料』一巻一冊二七六頁。

(4)改姓は復氏を除き認められなかった。これは、「同苗同名ニテ差支候者改名は被差許候ヘ共改姓は不相成候事」という太政官指令を法文化したものといえる(明治七年八月二四日新治県伺いに基づく同年一一月一〇日内務省伺いに対する同年一二月一八日太政官指令、『資料』一巻二冊二八二〜二八三頁)。

(5)三明治五年改名禁止令の注(13)参照。

(6)三明治五年改名禁止令の注(15)参照。

[69頁](7)三明治五年改名禁止令の注(14)参照。

(8)『資料』一巻二冊六〇〇頁。なお、同旨のものに、明治一一年四月一一日福島県伺いに対する同年五月一〇日内務省指令がある(『資料』二巻二冊上六五頁)。

(9)『資料』二巻二冊上一五二頁。

(10)前注と同じである。

(11)『資料』二巻二冊上一九〇頁。

(12)明治一一年一二月一一日兵庫県伺いに対する同年一二月一九日内務省指令(『資料』二巻二冊上一五九頁)。

(13)明治一二年五月二三日山形県伺いに対する同年六月一九日内務省指令(『資料』二巻二冊上二二二頁)。

(14)明治一〇年一一月一五日和歌山県伺いに対する同年一二月一二日内務省指令(『資料』一巻二冊六八一頁)。

(15)岡山県伺いに基づく明治一〇年二月一九日内務省伺いに対する同年三月九日太政官指令(『資料』一巻二冊六一二頁)。

(16)明治一一年一二月一〇日内務省伺いに対する同一二年一月一六日太政官指令(『資料』二巻二冊上一七一頁)。

(17)明治九年六月二一日宮内庁伺いに対する同年七月一三日太政官指令(『資料』一巻二冊五五〇頁)。

(18)明治一〇年三月八日東京府伺いに対する同年三月一九日内務省指令(『資料』一巻二冊六一六頁)。

(19)注(17)と同じである。

 

        改名禁止令廃止案と明治一三年太政官指令             目次に戻る

(一)明治一二年改名禁止令廃止案

(1)明治五年(一八七二)から七年が経過した同一二年(一八七九)になると、改名禁止法制にとってきわめて興味深い動きがあった。同一二年一〇月から翌一三年一月にかけて、改名禁止令の廃止が検討された。最終的に廃[70頁]止案は見送りとなったが、その結果出された明治一三年太政官指令は、それ以後の改名許可行政に大きな変化をもたらすことになった。以下にその経緯を述べる(1)

(2)明治一二年(一八七九)一〇月三〇日に、内務省は太政官に対して、「無余儀差支」を理由に改名申請をする事案が増加しており、そのいずれもが「凡ソ大同小異ノ者ナレハ以後同様聴許」したいので、明治五年改名禁止令を改正してほしいと、次の通り上陳した。

  明治五年八月第二百三拾五号布告但書左ノ通リ重テ改正候条此旨布告候事

   但同苗同名其他営業ノ都合及由緒等ニ因リ改名ヲ要スル者ハ管轄庁ヘ可願出事

すなわち、内務省は、以上の布告案のように、改名許可基準の緩和とその明確化を要請したのである。

 明治五年改名禁止令を修正した明治九年改名禁止令は、「同苗同名」「等」の「無余儀差支」がある場合に、改名が許可される法構造となっていた。これに対して、内務省案は、「同苗同名」「営業ノ都合」「由緒」「等」と、具体的に改名許可基準を例示し、これらの事由によって改名を必要とする者は管轄庁に願い出て許可を受けるとするものであった。

 (3)太政官は内務省案を法制局に審議させた。明治一二年(一八七九)一二月三日に、法制局は内務省案をさらに進めて、改名禁止令を廃止し、改名にとどまらず改姓を望む者の願い出を認めるべきとした。法制局の布告案は、次のとおり、画期的な内容であった。

  華士族平民苗字名并屋号共改称不相成旨明治五年八月第二百三十五号同九年一月第五号ヲ以テ布告候処右

  ハ相廃シ候条自今改姓改名致シ度者は本籍ノ戸長役場ヲ経テ管轄庁ヘ願出許可ヲ受クヘシ此旨布告候事(傍点

  は井戸田による)

[71頁](4)明治一二年(一八七九)一二月八日に、この法制局議案が元老院で付議されることとなった(2)。同月一五日に元老院の第一読会(3)が開会された。政府委員周布公平が政府案(法制局案)を以下のように説明した。明治五年改名禁止令は、「脱走浮浪ノ弊ヲ矯メ」るために、「戸籍ヲ精査」するものであった。しかし、「戸籍既ニ精査」となった今、この禁令を廃止しても、特に「治政上不都合」が生じる訳でもなく、「人民ニ於テ自由ノ便利」をもたらすことになる。「管轄庁ニ願出ルモノハ直ニ之ヲ允許セシメントス」と、その趣旨説明をした。これは、明治五年(一八七二)以来の原則的改名禁止政策を全面的に否定するものであって、正に政策の画期的な大転換を意味していた。

 元老院(第一読会、出席二一議官、発言九議官)での議論は、次の(イ)(ロ)(ハ)の三つに大別できる。

 (イ)政府案(現行法廃止・改名自由案)に賛成する者は一名であった。改名禁止の「布告ハ政府時ヲ知ラスシテ之ヲ発シタルナリ」。そのため「其不便ヲ蒙ル者往々之アリ」、また、「人民カ改称セント欲スルノ希望ハ……熱望不止モ亦知ル可ラス」の有様であり、改名は自由であるべきとする。

 (ロ)現行法を可とし、政府案を否とした者は、二名であった。その理由とするところは、以下のとおりであった。@「同苗同名ノミナラス『等』ノ字アルヲ以テソノ彊界ヲ敷衍シテ之ヲ用」うれば、現行法制で個々の改名許可申請に対処できるのであり、A目下立案中の民法案(4)、刑法案(5)はいずれも改姓名を制限する方向にあり、改姓名を自由にする政府案は、これら立法の動向と矛盾する。また、B姓名が社会的存在である限り、改姓名に社会的制約はあるのであって、改姓名を制限する「此有益ナル布告ヲ以テ俄ニ全廃ニ付スル」ことは、「大益中ニ小弊アルヲ看直ニ其法ヲ廃セントスルハ実ニ立法者ノ粗忽」であるとする。

 (ハ)多数意見(六名)は、現行法制下では、改名の自由が大きく制約されており、国民側に不便不都合が生じ[72頁]ているので、改名許可基準を緩和する必要はある。また、行政側にとっても改名許可基準が不明確であるので、現行法制の改正は必要であるとする。しかし、現行法制を全廃して、改名を自由にすることには反対であった。すなわち、@「元来人ノ証拠タル姓名ヨリ重キハナシ」といえるので、「漫リニ姓名ヲ改変セシムルハ甚タ不可」であり、姓名の社会的機能を重視すべきで、改名は自由とすべきでない。そのうえ、A改名自由の習俗が否定され、「多少ノ不便アリト雖トモ明治五年已ニ其之ヲ許ササルノ法アリ以来七年間現ニ此法行ハレテ目下人民ノ慣習ヲ成セリ」といえる。改名自由を否認する新慣行がすでに形成されているので、今更、改名原則禁止の現行法を廃止する必要はない。

 しかし、問題点を解決するためには、現行法制の不備を改めなければならないとする。すなわち、「明治九年ノ但書ヲ修正拡充」するか、「九年ノ布告但書ノ『等』ノ字ノ上ニ明了ナル字句ヲ加ルカ」、また「『無余儀差支』ト云フ文字ヲ改メ」るなどの方法によって、解決することを多数説は主張したのである。

 (5)元老院第二読会は、明治一二年(一八七九)一二月一八日に開催されることになっていたが(6)、法制局は同月一七日に太政官あて、「尚再調致度廉有之候ニ付一応御取戻相成度」と申牒した(現在のところ、何故に再調査が必要とされたのかは不詳である)。同月二〇日に太政官は元老院に布告案の返上を通牒した。これを受けた元老院は同月二二日に返上する旨の回答をし、翌二三日に返上した。このような動きがあったため、同月一八日に開催予定であった元老院第二読会は開催されず(7)、審議は未了となった。

(二)明治一三年太政官指令(改名禁止緩和)

 (1)布告案の返還を受けた法制局は、審議の末、明治一三年(一八八〇)一月七日になって、次の結論に達し[73頁]た。現行法制の但書「同苗同名等無余儀差支有之者」を拡大解釈し、これを運用すれば、「内務省上申幼名ヲ其家旧来ノ通字ニ改メ又ハ相続ノ際先戸主ノ名ニ改称スル等ノコトタリトモ地方官ニ於テ人民身家ノ都合ニ因リ已ムヲ得サル差支アルモノト認」めることは可能である。そうすれば、「改名聞届候テ毫モ法律ニ矛盾」することにはならない。したがって、現行法制の廃止は見送ることし、指令案を添えて太政官に上申した。これを受けた太政官は、同一三年(一八八〇)一月二八日に、内務省あて次の指令を出した(以下「明治一三年太政官指令」という)。

  伺ノ趣営業ノ都合及ヒ由緒等ニ因リ改名ヲ願出ル者ハ管轄庁ニ於テ其者身家ノ都合不得止差支アルモノト認ム

  ルトキハ改名差許不苦儀ト可心得事

 なお、政府案がいうように戸籍は必ずしも精査となっておらず、むしろ戸籍の不備が目立つ状況にあったことも(8)、この明治一三年太政官指令の成立に影響したと考えられる。

 (2)明治一三年太政官指令は、明治五年(一八七二)以降の改名原則禁止法制にとって、きわめて重大な意味があると思われる。すなわち、@明治五年改名禁止令・明治九年改名禁止令は廃止されず、有効とする。A但書「同苗同名等無余儀差支」の「等」には、「営業ノ都合」と「由緒」の二つが含まれることを具体的に例示した。B但書の「無余儀差支」を「其者身家ノ都合不得止差支」と明示したことである。

(三)明治一三年太政官指令の影響(V期)

 (1)明治一三年太政官指令が出されるにおよび、V期(明治一三年から三一年)の改名許可基準は、T期・U期に比して一層緩和され、より明確化された。V期での改名許可基準は、@各期を通じての明文の「同苗同名」のほかに、AT期・U期では明文となっていなかった「営業上の事由」が明文化され、これが改名許可の重要な基準[74頁]となった。さらに、B「営業上の事由」以外の重要な改名許可基準として、「由緒」が具体的に明文化された(「非営業上の事由」による改名許可)。C「等」のなかに含まれる、その他の「非営業上の事由」が各期を通して認められてきた。

 (2)明治一三年太政官指令がV期における改名許可申請や改名許可行政に大きな影響を与えた。次にその若干の例を示しておこう。

 @ V期では、明治一三年太政官指令が例示する「営業ノ都合」と「由緒」が改名許可申請において多く用いられており、この指令が与えた影響の大きさが分かる。

 A T期・U期にみられた「無余儀差支」は、V期になると、明治一三年太政官指令と同様の「其者身家ノ都合不得止差支」となり、ここにも同指令の影響をみることができる。

 B 明治一三年太政官指令と同旨の内務省指令が、当然のことであるが、多く出されている。例えば、明治一六年(一八八三)一〇月二四日の京都府伺いに対して、同年一一月一三日に、内務省は、

  書面伺之趣営業ノ都合及由緒等ニ依リ其者自家ノ都合不得止差支アリト認ムル者ノ外改名難差許儀ト可心得事と指令し、あわせて但書で「但最前指令本指令ト抵触スルモノハ取消トス」とまで指令している(9)。これもまた、明治一三年太政官指令が改名許可基準の行政解釈に及ぼしている影響である。

 (3)明治二〇年代に入ると、明治一三年太政官指令の主旨を入れた伺いが出されるようになった。明治二五年(一八九二)五月三日の千葉県照会文中に、「改名ハ営業ノ都合又ハ由緒等ニ依リ願出ルモノアルトキハ其者自家ノ都合不得止差支アルモノト認ムルモノ」(10)とあるのは、その一例である。

 (4)次に改名許可不許可の事案のうち、注目すべきものを少し紹介しておこう。

[75頁](イ)「同苗同名」  V期になると、「音訓称呼」の同一の意味が問題となった。音・訓・称呼の三つが同じであることを必要とすれば、該当するものはきわめて少なくなる。そこで、明治二五年(一八九二)七月一日に山口県は、「同音同称呼異訓」(近藤秀吉と金藤秀吉、近藤秀次郎と近藤秀二郎)や、「同訓同称呼異音」(寅吉と虎吉、政助と政輔)などは実際に支障が生じるので、「音訓称呼」が同じとはこの音・訓・称呼の三者が同一の場合に限定されるべきではないのではないかと照会した。これに対して、同七月一一日に内務省は、「身家ノ都合不得已差支アルモノト認ムル者ニ限リ御差許相成可然」と回答した(11)

 (ロ)明文の「営業ノ都合」  T期・U期においては、明文化されていなかったが、「営業上の事由」は、明文の「同苗同名」とともに、重要な改名事由であった。V期になると、「営業ノ都合」は明文化され、これを理由とする改名が増加した(12)

 士族の帰農商のために営業上不都合が生じても、T期では(明治七年一二月一八日太政官指令)、改名は許可されなかったが、V期になると(明治一六年一月一二日内務省指令)、「営業上差支アルモノト認ムル上ハ聞届不苦」と、改名が許されるようになった(13)。これは秩禄処分の措置が進み、「諸般取調方ニ差支不都合」が緩和されたことが影響したと考えられる。

 なお、名乗(実名)・通称に関して、名乗などの「文字衆庶解シ難ク取引上差支」があるときは、「普通解読ノ文字」への改名は許された(14)

 (ハ)明文の「由緒」(非営業上の事由)  明治一三年太政官指令で改名許可基準の具体的事例として明文化された「由緒」は、このV期の特色であり、最も改名申請に利用された。T期・U期では、「由緒」は改名の事由には必ずしもならなかった。T期・U期で否認されたが、V期になって、「由緒」で改名が認められた事案に次のも[76頁]のがある。

 @ 養子の養家累代の通字・通名への改名

 T期・U期にあっては、養子が養家の通字・通名に改めることは、「由緒」の事由だけでは認められず、営業上の事由を必要とした。V期になると、「由緒」を事由として、養子が「該家累代ノ通字ヲ称用」することが許されるようになった(15)

A 養子が養家の通字・通名に改名後、離縁の場合の旧名への改名(復名)

 これについては、T期では、「家業差支候訳」ではないが、「情実無余儀」場合には聞き届けてよいとされていたが(16)、U期になると許可されなくなった(17)。ところが、V期では改名が許可されるようになった(18)。その理由について、

  養家ヨリ離縁復帰セシ上ハ別ニ養家ノ通名又ハ通字ヲ襲用スルノ必要無之ノミナラス已ニ実家復籍後尚養家ノ

  通名ヲ用フルカ如キハ却テ夫是差支ヲ生シ且其養家離縁ノ事故ニ依リテハ本人及養家ノ間互ニ不快ノ感触

があるからとする(19)。「家」のための養子であって、そのため養家の通字・通名への改名が許可されたのであれば、離縁し実家に復籍した以上は、旧名に再び改めることを拒否する理由はないといえる。否、むしろ復名することは当然のことと考えられた。

 B 「由緒」による襲名

 T期・U期では、営業上の事由からの襲名は許可されていたが、単に「由緒」を事由とする襲名による改名は許可されなかった。しかし、V期になると、営業上の事由による襲名にとどまらず、「由緒」による襲名も許されることとなった。代替わりにともなう新戸主の襲名等その事案は多くある(20)

(ニ)改名不許可の事案

[77頁]V期になると、明文化された「営業ノ都合」、「由緒」や「其者身家ノ都合不得止差支アリト認」められると、改名が許可される事案が増加した一方、不許可の事案は少なくなっていった。改名が不許可になった事例を一つ紹介しておこう。単に名前が差し支えるという事由では許可されなかった例である。桂太郎の弟景教が準奏任官として農商務省に奉職中「名前差閊ノ趣」があるだけでは、改名は許可できないと指令された(21)

 

 

(1)明治一二年一〇月三〇日内務省伺いに対する同一三年一月二八日太政官指令(『資料』二巻二冊上三一二〜三一四頁)。

(2)第一六三号議案「明治五年第二百三十五号九年第五号布告廃止案」(明治法制経済史研究所編『元老院会議筆記』前期七巻、元老院会議筆記刊行会、一九六三年、五七三〜五七八頁)。

(3)『元老院日誌』二巻(三一書房、一九八一年)二五四頁。

(4)いわゆる「明治一一年民法草案」である。これは翌一二年に廃案となった。

(5)明治一三年太政官布告三六号「刑法」のことである。

(6)前掲『元老院会議筆記』前期七巻五七八頁、『朝野新聞』(ぺりかん社刊行)明治一二年一二月一六日。

(7)前掲『朝野新聞』明治一二年一二月一八日。

(8)井戸田前掲『家族の法と歴史』六〜七頁。

(9)『資料』二巻二冊下一四三頁。

(10)『資料』三巻二冊四四六〜四四七頁。

(11)『資料』三巻二冊四五七頁。

(12)明治一四年五月二三日鹿児島県伺いに対する同年六月一八日内務省指令(『資料』二巻二冊上五三一頁)、同一五年一一月二九日東京府伺いに対する同一六年一月一九日内務省指令(『資料』二巻二冊下四頁)など、多くの事例がある。

(13)明治一五年一一月二九日宮城県伺い(『資料』二巻二冊下七頁)。

(14)前注と同じである。なお、同旨のものに、明治一六年一〇月一二日静岡県伺いに対する同年一〇月二六日内務省指令(『資[78頁]料』二巻二冊下一三三頁)。

(15)明治一六年五月七日京都府伺いに対する同年五月二二日内務省指令(『資料』二巻二冊下六五頁)。

(16)明治六年八月一七日小倉県伺いに対する同年九月二日太政官指令(『資料』一巻二冊下一一一頁)。

(17)四明治九年改名禁止令の注(18)と同じである。同旨のものに、明治一一年(月日欠)和歌山県伺いに対する同年八月(日欠)内務省指令(『資料』二巻二冊上一二六頁)。

(18)注(15)と同じである。明治二五年一月一一日滋賀県照会に対する同年一月一四日内務省回答(『資料』三巻二冊四一四頁)。

(19)前注後半の滋賀県照会。

(20)明治一五年七月八日愛知県伺いに対する同年八月二八日内務省指令(『資料』二巻二冊上六九六頁)など。

(21)明治一五年六月七日山口県伺いに対する同年七月一七日内務省指令(『資料』二巻二冊上六八三頁)。

 

        おわりに                            目次に戻る

 (1)本稿は、わが国の名に関する伝来の慣行を改変し、しかも今日の改名法制に大きな影響を与えた明治前期(明治五年から明治民法施行の同三一年まで)の改名禁止法制を、当時の伺い事案とそれに対する指令の分析を通して、明らかにすることを目的にしている。

 本稿の特色は、(イ)@明治五年太政官布告二三五号、A明治九年太政官布告五号、Bこの二布告の廃止案とその検討結果である明治一三年太政官指令の三つによって、明治前期を三期(T期―明治五年〜八年、U期―明治九年〜一二年、V期―明治一三年〜三一年)に区分したこと、(ロ)従前の研究であまりふれられていない明治一三年太政官指令を重視して分析し、時代区分をしたこと、(ハ)伺い事案とその指令を単に年代順に整理するのではなく、改名自由の内容によって、体系化したことにある。

[79頁](2)名に関するわが国古来の慣行は、一生の間に幾度か名を改め、あるいは複数の名を同時に使用してきた。わが国には複名と改名自由の習俗があったのである。しかし、近代的な中央集権的国家体制の樹立を求めていた政府は、国民すべてを把握する戸籍制度の確立を急務としていた。そのためには、全国民を氏と名で固定する必要があった。そこで、人の特定を難しくする複名と改名自由の慣行は認められなくなった。明治五年(一八七二)五月七日に、太政官より複名禁止令が布告され、法律上、一名主義が採用された。次いで、同五年八月二四日には、苗字名などの改称を禁止する太政官布告が出され、「同苗同名ニテ無余儀差支」がある場合を除いては、改名は認められなくなった。

 (3)ここにおいて、わが国伝来の複名と改名自由の習俗は否定された。明治五年改名禁止令は、ただし書で「同苗同名ニテ無余儀差支」があるときは、管轄官庁へ願い出て許可を得れば、改名は認められるとしていたが、これまで改名を自由にしてきた慣行をこれらの一片の布告ですべて否認することは現実には不可能であった。同苗同名以外の理由による改名申請が続出するにおよんで、明治九年改名禁止令は、「同苗同名ニテ」を「同苗同名等」と改めた。すなわち、「ニテ」を削除し、逆に「等」の字を追加することによって、「同苗同名」「等」の事由があり、それが「無余儀差支」であるときは、改名が許可されることになった。

 さらに、明治一二年(一八七九)になると、改名禁止令を廃止することが検討されることになった。改名禁止令の廃止は実現しなかったが、同一三(一八八〇)年一月二八日に、明治九年改名禁止令の「同苗同名等」の「等」には「営業ノ都合」と「由緒」が含まれ、「無余儀差支」とは「其者身家ノ都合不得止差支」ことであると、その内容を明確する指令を、太政官は内務省に出した。この明治一三年太政官指令は、その後の改名許可行政に大きな影響を与えたのである。

[80頁](4)明治一九年(一八八六)の戸籍取扱手続は、改名について直接規定せず、明治九年太政官布告五号、明治一三年太政官指令によって、改名許可行政は行われた。東京府では、明治二一年(一八八八)七月一一日に、「改氏名許可標準」(1)を各郡区長宛に出した。それによれば、改名事由として、@音訓称呼を同じくするもの(「同姓名ハ勿論同姓異名異姓同名ト雖トモ其音訓称呼ヲ同フスルモノ」)、A営業上の襲名(「営業ノ為メ先代若クハ先々代ノ名ヲ襲クモノ」)、B得度改名(「僧尼得度済ノモノ」)、C営業上の差支(「医師若クハ商人襲名ニ非スト雖モ営業上差支アリト認ムルモノ」)、D累代三代以上の通字の称用(「累代三代以上ノ通字ヲ称用スルモノ」)を挙げている。これは、地方行政庁における明治二〇年代初めの改名許可基準を整理したものといえる。本稿の分類区分に従えば、(イ)「同苗同名」は@、(ロ)「営業の都合」はA・C、(ハ)「由緒」はD、(ニ)「その他(等)」はBに、それぞれ相当する。

 (5)参考までに、明治三一年戸籍法以降の改名法制について少し述べておこう。明治三一年戸籍法(一六四条)は、氏名の改称(2)について、「氏ヲ復旧シ又ハ名ヲ改称シタル者ハ十日内ニ左ノ諸件ヲ具シ管轄庁ノ許可書ノ謄本ヲ添ヘテ之ヲ届出スルコトヲ要ス」と規定した。大正三年戸籍法(一五三条)も、「氏名変更ノ届出ハ許可ノ日ヨリ十日ニ之ヲ為スコトヲ要ス」と同様の規定が置かれていた。改名の許可者は、郡長(大正一二年郡制廃止まで)、府県知事またはその委任を受けた市町村長であった。

 このように、わが国伝来の改名自由の慣行は否定され、その改名許可は行政処分として行われた。昭和二二年(一九四七)の現行戸籍法は、家庭裁判所の審判によって、「正当な事由」がある場合に、改名が許可されることとなった。改名許可の事由について、戸籍法は具体的に規定せず、家庭裁判所の判断事項とした。同二三年(一九四八)一月三一日の最高裁判所民甲三七号民事部長回答(3)は、改名が許可される事例として、次の五つを挙げている。@営業上の襲名、A同姓同名による社会生活上の支障、B神官僧侶に関するもの、C珍奇難読解等、D帰化の五事例で[81頁]ある。

(6)本稿では、今日の改名に関する法制に大きく影響を与えている明治前期の改名禁止法制について、その経緯を明らかにしてきたが、明治三一年戸籍法以降現在に至るまでの改名についての法制と改名許否事案などを、今後稿を改めて明らかにしたいと考えている。

 

(1)東京府第一部長通牒六一二三号。宮尾時司『改氏改名法規実例類集』(雄山閣出版、一九二五年)一六〜一七頁。

(2)氏の変更をみとめる条文であるが、改氏は氏の復旧の場合にのみ認められると解釈された(谷口知平『戸籍法(新版)』有斐閣、一九七三年、二三八頁)。

(3)金沢地裁所長宛最高裁判所事務総局民事局長回答。

以上

 

 

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