[35頁]論  説

     合憲限定解釈の再検討
      労働基本権を制約する最高裁判決を素材に


                                   君  塚  正  臣


     目  次

   はじめに
 1 都教組事件 合憲限定解釈肯定
 2 全農林警職法事件 合憲限定解釈否定
 3 諸検討
   おわりに
[36頁]     はじめに


 日本の憲法訴訟に関する理論は、付随的違憲審査制の中で論じられるべきである(1)。憲法判断をする必要のない事件では原則として憲法判断をするべきではなく、逆にその必要がある事件では憲法判断をすべきである。例えば、憲法判断回避は「準則」と言われるが、憲法判断に踏み込むか否かは決して裁判官の裁量に委ねられるべきものではないと思われた(2)
 さて、憲法判断の方法について論じ出せば、次に論じなければならないものは、合憲限定(拡張)解釈という手法についてであろう。合憲限定解釈と言えば、公務員や公共企業体等職員の争議権に関する、全逓東京中郵事件(3)、都教組事件(4)、全司法仙台事件(5)という一連の事件が思い出される。合憲限定解釈とは一般に、「字義どおりに解釈すれば違憲になるかも知れない広汎な法文の意味を限定し、違憲となる可能性を排除することによって、法令の効力を救済する解釈であり、そこには当該法令の合憲判断が原則として前提とされている(6)」ものとされる。ここでは、広義・狭義の少なくとも二義の解釈が存在し、基本的には前者を採れば法令違憲だが、後者を採ればそうは言えない、という事態が想定されている(7)。そしてそれは、最高裁では、全農林警職法事件最高裁判決(8)で葬り去られるまでの短い命であった。その中で学説は、それよりはまだよいものとして、このような技法を支持してきた印象があるのであった(9)
 この手法は、ブランダイス・ルール第七準則との関係で、憲法判断回避の準則の一類型として論じられることが多いが、憲法判断に入りながら法令違憲を回避する技術であって、憲法判断そのもの回避とは異なるものであ[37頁](10)。その意味では、憲法判断回避の準則とは独立した検討が必要であるように思える。果たして、そのような解釈手法は憲法解釈上是認されるべきなのであろうか。本稿は、この点を再考し、憲法訴訟理論にささやかな寄与することを試みるものである。

     1 都教組事件 合憲限定解釈肯定 戻る


 まずは、合憲限定解釈の典型例と言われる、都教組事件最高裁判決を考察してみることとしたい。この事件の被告人は地方公務員である東京都教職員組合の幹部であった。公立小中学校教職員の勤務評定に反対する運動の一環として、一九五八年四月二一日に「組合員は勤務評定を実施させない措置を地公法四条に人事委員会に要求せよ。右手続は昭和三三年四月二三日午前八時から開催する全員集会で取りまとめて提出せよ。(右手続に必要な休暇請求は同日までに行う)」との指令を出したのである。この指令に基づいて、組合員約二四〇〇〇人が四月二三日に一斉に休暇届を提出して勤務評定反対運動を行った。そこで、その一斉休暇闘争の指令が、地方公務員法三七条及び六一条四号の禁ずる同盟罷業のあおり行為等に該当するとして、被告人らは起訴されたのであった。一審の東京地裁(11)は、地方公務員法の規定を厳格に解し、被告人らの行為は「あおり」には該当しないとして被告人らを無罪としたが、二審の東京高裁(12)は、それは争議行為の原動力となった行為であり、処罰には十分に合理的な根拠があるとして逆転有罪判決を言い渡していた。
 最高裁大法廷は、七裁判官からなる多数意見(うち一裁判官は、反対意見に反論する補足意見を述べた)、二裁判官[38頁]それぞれによる多数意見の結論には同意する意見、五裁判官の反対意見に分かれたが、結論としては原判決を破棄し、被告人全員を無罪とする判決を下したのであった。
 多数意見はまず、全逓東京中郵事件最高裁判決を引きながら、「実定法規によつて労働基本権の制限を定めている場合にも、労働基本権保障の根本精神にそくしてその制限の意味を考察すべきである」が、「労働基本権は、たんに私企業の労働者だけについて保障されるのではなく、公共企業体の職員はもとよりのこと、国家公務員や地方公務員も、憲法二八条にいう勤労者にほかならない以上、原則的には、その保障を受けるべきもの」であり、「公務員の職務が、私企業や公共企業体の職員の職務に比較して、より公共性が強いということができるとしても、公務員の職務の性質・内容を具体的に検討しその間に存する差異を顧みることなく、いちがいに、その公共性を理由として、これを一律に規制しようとする態度には、問題がないわけではない」として、特別権力関係論的解決を拒絶した。
 そして、「地公法三七条および六一条四号が違憲であるかどうかの問題は、右の基準に照らし、ことに、労働基本権の制限違反に伴う法律効果、すなわち、違反者に対して課せられる不利益については、必要な限度をこえないように十分な配慮がなされなければならず、とくに、勤労者の争議行為に対して刑事制裁を科することは、必要やむをえない場合に限られるべきであるとする点に十分な考慮を払いながら判断されなければならない」が、「地公法三七条一項には、『職員は、地方公共団体の機関が代表する使用者としての住民に対して同盟罷業、怠業その他の争議行為をし、又は地方公共団体の機関の活動能力を低下させる怠業的行為をしてはならない。又、何人も、このような違法な行為を企て、又は遂行を共謀し、そそのかし、若しくはあおつてはならない。』と規定し、同法六一条四号には、『何人たるを問わず、第三七条第一項前段に規定する違法な行為の遂行を共謀し、そ[39頁]そのかし、若しくはあおり、又はこれらの行為を企てた者』は三年以下の懲役または一○万円以下の罰金に処すべき旨を規定している。これらの規定が、文字どおりに、すべての地方公務員の一切の争議行為を禁止し、これらの争議行為の遂行を共謀し、そそのかし、あおる等の行為(以下、あおり行為等という。)をすべて処罰する趣旨と解すべきものとすれば、それは、前叙の公務員の労働基本権を保障した憲法の趣旨に反し、必要やむをえない限度をこえて争議行為を禁止し、かつ、必要最小限度にとどめなければならないとの要請を無視し、その限度をこえて刑罰の対象としているものとして、これらの規定は、いずれも、違憲の疑を免れないであろう」と述べ、文言解釈に撤すれば法令違憲となることを示唆したが、多数意見は続けて次のように判示した。「しかし、法律の規定は、可能なかぎり、憲法の精神にそくし、これと調和しうるよう、合理的に解釈されるべきものであつて、この見地からすれば、これらの規定の表現にのみ拘泥して、直ちに違憲と断定する見解は採ることができない。すなわち、地公法は地方公務員の争議行為を一般的に禁止し、かつ、あおり行為等を一律的に処罰すべきものと定めているのであるが、これらの規定についても、その元来の狙いを洞察し労働基本権を尊重し保障している憲法の趣旨と調和しうるように解釈するときは、これらの規定の表現にかかわらず、禁止されるべき争議行為の種類や態様についても、さらにまた、処罰の対象とされるべきあおり行為等の態様や範囲についても、おのずから合理的な限界の存することが承認されるはずである。」
 この観点から地公法三七条をみれば、そ「の元来の趣旨は、地方公務員の職務の公共性にかんがみ、地方公務員の争議行為が公共性の強い公務の停廃をきたし、ひいては国民生活全体の利益を害し、国民生活にも重大な支障をもたらすおそれがあるので、これを避けるためのやむをえない措置として、地方公務員の争議行為を禁止したものにほかならない」のだから、「地方公務員の具体的な行為が禁止の対象たる争議行為に該当するかどうか[40頁]は、争議行為を禁止することによつて保護しようとする法益と、労働基本権を尊重し保障することによつて実現しようとする法益との比較較量により、両者の要請を適切に調整する見地から判断することが必要である。そして、その結果は、地方公務員の行為が地公法三七条一項に禁止する争議行為に該当し、しかも、その違法性の強い場合も勿論あるであろうが、争議行為の態様からいつて、違法性の比較的弱い場合もあり、また、実質的には、右条項にいう争議行為に該当しないと判断すべき場合もあるであろう」というのである。
 多数意見は、「また、地方公務員の行為が地公法三七条一項の禁止する争議行為に該当する違法な行為と解される場合であつても、それが直ちに刑事罰をもつてのぞむ違法性につながるものでないことは、同法六一条四号が地方公務員の争議行為そのものを処罰の対象とすることなく、もつぱら争議行為のあおり行為等、特定の行為のみを処罰の対象としていることからいつて、きわめて明瞭である」とした。そして、同号は「争議行為自体が違法性の強いものであることを前提とし、そのような違法な争議行為等のあおり行為等であつてはじめて、刑事罰をもつてのぞむ違法性を認めようとする趣旨と解すべき」だとしたのである。
 そして、「これを本件についてみる」と、「被告人らは、いずれも都教組の執行委員長その他幹部たる組合員の地位において右指令の配布または趣旨伝達等の行為をしたというのであつて、これらの行為は、本件争議行為の一環として行なわれたものであるから、前示の組合員のする争議行為に通常随伴する行為にあたるものと解すべきであり、」「労働基本権尊重の憲法の精神に照らし、さらに、争議行為自体を処罰の対象としていない地公法六一条四号の趣旨に徴し、これら被告人のした行為は、刑事罰をもつてのぞむ違法性を欠くものといわざるをえない。」として、多数意見は、被告人全員を無罪としたのである。
 入江俊郎裁判官の意見は、同日に判決が下された全司法仙台事件「判決に付した私の意見と趣旨を同じくする[41頁]ので、それを本件に援用する」としたものである。この判決で、入江裁判官は、「いやしくも国公法上違法と認められる争議行為を対象としてあおり行為等が行なわれた以上、これに対し前記刑罰法規の適用のあることは当然といわなければならない」ので、「到底これに賛同することはできない」とする。「右刑罰法規の適用に当たつては、情状等を考慮することにより量刑の面で適切な斟酌をすることが可能であり、違憲の問題は生じない」とも述べている。そうではなく、「多数意見の右のごとき解釈のよつて来たる所以は、」「動労者自らが争議行為をした場合は刑罰を科せられないとされているのに、そのような従属的ないし附随的行為につき刑責を認めるとすれば、それはその動労者が自ら行なう争議行為に実質的に包含されていると解される行為の一部を取り上げて処罰すると同様な結果となり極めて不合理であり、争議行為自体に刑責を負わせない立前と矛盾し、かくては労働基本権を認めた憲法二八条の法意にも反することとなるという配慮に出たものに外ならないと考える」からであると述べ、当該実行行為が刑罰を科せられないときに煽動者が刑罰を受ける不合理を強調して、多数意見の結論にだけ同調したのである。
 岩田誠裁判官は、「被告人らの本件行為は、被告人らの属する職員団体である都教組がその本来の目的達成のために自主的に発案、計画した争議行為遂行の過程としての指令の配布、その趣旨の伝達等をしたものであつて、地公法六一条四号にいうあおり行為にあたらないもの」だとしながら、「『あおり行為等』の対象となる争議行為について、その違法性の強弱により地公法六一条四号の適用の有無を決すべきではないと思う」として、多数意見の理由づけには反対し、結論にのみ賛成した。
 これに対して奥野健一ほか五裁判官の反対意見は、まず、「公務員の争議行為の禁止は、公共の福祉の要請に基づくものであつて、憲法二八条に違反するものということはできない」とした上で、地公法が煽動行為だけを[42頁]処罰していることについて、「違法な争議行為に原動力を与える者は、単なる争議に参加した者に比して、反社会性の強いものとして、特別の可罰性を認めるべきであるとの観点から、争議に対し指導的役割をなす煽動者等のみを処罰することにより、違法な争議行為の防止と刑政の目的を達し得るものと考えたのである」から、「固より、立法政策の範囲内に属するものであつて、違憲とはいい難い」とした。そして、「法は、争議行為自体を処罰しないとしながら、敢てこれをあおつた者を処罰すると規定しているのであるから、違法性の強いもの、ないし刑事罰をもつてのぞむべき違法性のある争議行為をあおつた場合に限り、あおり行為を処罰する趣旨と解することは、ことさらに明文に反する解釈である」として、被告人有罪の原判決を維持すべきとしたのである。
 この判決は、争議行為と煽動行為の両方に強度の違法性を要求する「二重の絞り」論として紹介されるものである(13)が、争議行為そのものの違法性と、その煽動の違法性の議論は若干次元を異にしていよう。即ち、争議行為については、公務員だからという理由での一律規制を否定し、一般に憲法上の権利を制限する際には必要最小限の規制でなければならないこと、他の法益との比較衝量が必要であることを強調したものであった(14)。もしも、公務員の争議が刑罰をもって処罰するほど違法ではないということが、刑罰法規の解釈として言えるのであれば、可罰的違法性論で決着がつく問題であった。政治スト、暴力スト、長期ストを例示する都教組事件の最高裁は、争議目的の正当性、争議手段の相当性、争議結果の軽微性を要素としており、藤木理論(15)の影響が顕著であるとの評価もある(16)。だが、何が「可罰的」かは、この場合、根本的には労働基本権が憲法上の権利であるという憲法判断を前提にしている。その意味では、単なる可罰的違法性の議論が展開されていたわけではないと思われる(17)。他方、煽動行為に関しては、憲法上の権利の制約の場面では、より制限的でない他に選択できる手段がある場合には刑法の謙抑性が発揮されるべきとの考え方を背景に、刑罰を必要とするという意味で、違法性を排除しており、[43頁]LRAの基準(18)が萌芽的に展開されているとも読めなくはなかったのである。
 これに対して、二つの結果同意意見は、実行行為について刑罰を予定していないこととの不均衡や、単なる伝達行為が「あおり」に該当しないことを無罪の理由としていた。共に、煽動処罰にのみ注目したものと思われる。また両意見は、多数意見の争議や煽動の違法の度合いを考慮せよとの主張に批判を加えている。つまり、二重の意味で「二重の絞り」論ではないのである。直截に多数意見を批判する五裁判官の反対意見はそれらの配慮すら不要とするものであった。多数意見の理由部分は大法廷の過半数を制した判例とは言い得ず、憲法判断そのものについての消極主義と併せて(19)、全農林警職法事件での逆転を招いたものだとも言えなくはなかったのである。

     2 全農林警職法事件 合憲限定解釈否定 戻る


 これに対して、全農林警職法事件最高裁判決は、そのような最高裁判決の流れを変え、公務員の労働基本権制約を容認するものとして有名である。
 一九五八年の警察官職務執行法改正法案に反対する運動の中で、全農林労組幹部であった被告人らは、同一一月五日には正午勤務の行動に入れと指令し、午前一〇時頃から一一時四〇分頃まで農林省職員の職場集会において約三〇〇〇人の職員に対し、職場集会への参加を慫慂するなどしたとして、国家公務員法九八条五項違反で起訴されたのであった。一審の東京地裁(20)は同条項の罰する煽り行為を限定的に解し、被告人らの行為が強度の違法性を帯びない限りはこれに該当しないとして無罪判決を言い渡したが、二審の東京高裁(21)は、そのような限定を加え[44頁]ず、かつ本争議行為を「政治スト」と解して、被告人らを有罪としていた。最高裁は被告人らの上告を棄却し、その有罪が確定したのである。
 多数意見はまず、「公務員は、私企業の労働者と異なり、」「実質的には、その使用者は国民全体であり、公務員の労務提供義務は国民全体に対して負うものである。もとよりこのことだけの理由から公務員に対して団結権をはじめその他一切の労働基本権を否定することは許されないのであるが、公務員の地位の特殊性と職務の公共性にかんがみるときは、これを根拠として公務員の労働基本権に対し必要やむをえない限度の制限を加えることは、十分合理的な理由がある」などとして、公務員に対する一律の規制を認めた。代替措置などに言及した上で、「国公法一一〇条一項一七号」「の禁止を侵す違法な争議行為をあおる等の行為をする者は、違法な争議行為に対する原動力を与える者として、単なる争議参加者にくらべて社会的責任が重いのであり、」「その者に対しとくに処罰の必要性を認めて罰則を設けることは、十分に合理性がある」とした。そして、「違法な争議行為に対する原動力または支柱となるものとして罰則の対象とされる国公法一一〇条一項一七号所定の各行為のうち、本件において問題となつている『あおり』および『企て』について考えるに、ここに『あおり』とは、国公法九八条五項前段に定める違法行為を実行させる目的をもつて、他人に対し、その行為を実行する決意を生じさせるような、またはすでに生じている決意を助長させるような勢いのある刺激を与えること(最大判昭和三七年二月二一日刑集一六巻二号一〇七頁参照)をい」うのであるから、その「犯罪構成要件は、所論のように、内容が漠然としているものとはいいがた」いとしたのである。
 多数意見は続けて、都教組事件の合憲限定解釈に言及した。「国公法九八条五項、一一〇条一項一七号の解釈に関して、公務員の争議行為等禁止の措置が違憲ではなく、また、争議行為をあおる等の行為に高度の反社会性[45頁]があるとして罰則を設けることの合理性を肯認できることは前述のとおりであるから、公務員の行なう争議行為のうち、同法によつて違法とされるものとそうでないものとの区別を認め、さらに違法とされる争議行為にも違法性の強いものと弱いものとの区別を立て、あおり行為等の罪として刑事制裁を科されるのはそのうち違法性の強い争議行為に対するものに限るとし、あるいはまた、あおり行為等につき、争議行為の企画、共謀、説得、態通、指令等を争議行為にいわゆる通常随伴するものとして、国公法上不処罰とされる争議行為自体と同一視し、かかるあおり等の行為自体の違法性の強弱または社会的許容性の有無を論ずることは、いずれも、とうてい是認することができない。けだし、いま、もし、国公法一一〇条一項一七号が、違法性の強い争議行為を違法性の強いまたは社会的許容性のない行為によりあおる等した場合に限つてこれに刑事制裁を科すべき趣旨であると解するときは、いうところの違法性の強弱の区別が元来はなはだ暖昧であるから刑事制裁を科しうる場合と科しえない場合との限界がすこぶる明確性を欠くこととなり、また同条項が争議行為に『通常随伴』し、これと同一視できる一体不可分のあおり等の行為を処罰の対象としていない趣旨と解することは、一般に争議行為が争議指導者の指令により開始され、打ち切られる現実を無視するばかりでなく、何ら労働基本権の保障を受けない第三者がした、このようなあおり等の行為までが処罰の対象から除外される結果となり、さらに、もしかかる第三者のしたあおり等の行為は、争議行為に『通常随伴』するものでないとしてその態様のいかんを問わずこれを処罰の対象とするものと解するときは、同一形態のあおり等をしながら公務員のしたものと第三者のしたものとの間に処罰上の差別を認めることとなつて、ただに法文の『何人たるを問わず』と規定するところに反するばかりでなく、衡平を失するものといわざるをえないからである。いずれにしても、このように不明確な限定解釈は、かえつて犯罪構成要件の保障的機能を失わせることとなり、その明確性を要請する憲法三一条に違反する疑いすら存する[46頁]ものといわなければならない」ので、全司法仙台事件「判決は、本判決において判示したところに抵触する限度で、変更を免れない」として、上告を棄却したのであった。
 これには、「全司法仙台事件判決の示した限定解釈には重大な疑義がある」ことを改めて指摘した上で、「全司法仙台事件判決には、真の意味の多数意見なるものがはたして存在するといえるであろうか」を問題にする、石田和外裁判官ほか六裁判官の補足意見がある。この意見は、「限定解釈をすべきであるという点では同意見であつても、」「限定解釈についての内容が区々にわかれていて、過半数の意見の裁判官による一致した意見は存在しない」ので、「今日、もはやいかなる意味においても『判例』として機能しえないものであり、これが変更されるべき」だとして、田中裁判官ほかの意見に反論したのである。
 岩田誠裁判官の意見は、国公法一一〇条一項一七号「の規定は、これになんら限定解釈を加えなくても、憲法二八条に違反しないとする意見には賛同することができない」としながらも、被告人らの行為は「憲法二八条の保障する労働基本権の行使ということはできないものであ」り、「それぞれ国公法一一〇条一項一七号にいう争議行為をあおることを企て、または、争議行為をあおつたものとして同条項違反の罪責を免れないものといわなければならない」として有罪の原判決を支持したものである。
 これに対して田中二郎裁判官ほか五裁判官は、「多数意見の説く理由には賛成することができない」として、独自の意見を記した。全司法仙台事件大法廷判決「は、憲法二八条が労働基本権を保障していることにかんがみ、勤労者である公務員の争議行為とこれをあおる等の行為のうち、刑罰の対象とならないものを認めるべきであるとの基本的観点にたち、その基準として、争議行為については、職員団体の本来の目的を達成するために、暴力なども伴わず、不当に長期にわたる等国民生活に重大な支障を及ぼす虞れのないものにかぎつているのであつて、[47頁]いわゆる違法性の強弱という表現は、以上の趣旨で用いられたものと解される」が、「公務員の争議行為をあおる等の行為が右の基準に照らして処罰の対象となるかどうかは、事案ごとに具体的な事実関係に照らして判断されなければならない」ことも、「全逓中郵事件のような場合に、憲法二八条ないしは労働組合法一条二項の規定との関係から、労働組合の本来の目的を達成するためにした正当な行為であるかどうかにつき、事案ごとに具体的な事実関係に照らして判断されなければならないのと同様である」などとして、違法性の強弱を区別できないとする多数意見に反論した。
 そして、法令の「基本的人権の侵害にあたる場合がむしろ例外で、原則としては、その大部分が合憲的な制限、禁止の範囲に属するようなものである場合には、当該規定自体を全面的に無効とすることなく、できるかぎり解釈によつて規定内容を合憲の範囲にとどめる方法(合憲的制限解釈)、またはこれが困難な場合には、具体的な場合における当該法規の適用を憲法に違反するものとして拒否する方法(適用違憲)によつてことを処理するのが妥当な処置というべきであり、この場合、立法による修正がされないかぎり、当該規定の適用が排除される範囲は判例の累積にまつこととなるわけであり、ことに後者の方法を採つた場合には、これに期待せざるをえない場合も少なくないと考えられるのである」ので、「全司法仙台事件の判決が国公法一一〇条一項一七号の規定について前記のような趣旨で構成要件の限定解釈をしたからといつて、憲法三一条に違反する疑いがあるとしてこれを排斥するのは相当でなく、いわんや、この点を理由として、右国公法の規定が解釈上これになんらの限定を加えなくても憲法二八条に違反せず全面的に合憲であるとするようなことは、とうてい、許されるべきではない」として、多数意見に反駁したのである。
 また加えて、本件「のような争議行為が憲法二八条による争議権の保障の範囲に含まれないことは、岩田裁判[48頁]官の意見のとおりである。それゆえ、この点につき判断を加えれば、本件の処理としては十分であり、あえて勤労条件の改善、向上を図るための争議行為禁止の可能性の問題にまで立ち入つて判断を加え、しかも、従前の最高裁判所の判例ないしは見解に変更を加える必要はなく、また、変更を加えるべきではない」。「ことに、最高裁判所が最終審としてさきに示した憲法解釈と異なる見解をとり、右の先例を変更して新しい解釈を示すにあたつては、その必要性および相当性について特段の吟味、検討と配慮が施されなければならない」などとして、多数意見の判例変更にも異議を唱えたのである。
 色川幸太郎裁判官は、「当裁判所大法廷の都教組事件判決及び仙台全司法事件判決(但しこれに付した私の少数意見と抵触する部分を除く。)にあらわれた基本的な見解を引用し、これをもつて私の意見とする」として、ただひとり反対意見を述べた。
 田中裁判官ほか五裁判官の意見は、都教組事件判決と同様に、適用違憲や合憲限定解釈という手法を肯定した。だが、今回の事案では当該刑罰法規の合憲性が明らかなので、先例との関係に言及するべきではないと判断したのであった。これに対して多数意見は、合憲限定解釈という手法を、少なくとも刑罰法規に関しては否定したものと言えよう(22)。そして、当該刑罰法規が違憲ではないことを判示した。加えて、全司法仙台事件は大法廷の過半数を制する法廷意見がない以上、先例としての価値を認めず、これとは逆の判断をあっさりと示したのであった。
 だが、多数意見とは逆に、合憲限定解釈ができないのであれば、当該法令を端的に法令違憲とすべきではないかという考え方もあり得る。最高裁が短期に人権制限的な方向に判例を変更したことへの批判と併せて、この点を非難する見解は多い(23)。実質的な意味においては、事後処罰の禁止を禁じた憲法三九条の趣旨に反することもあり得よう(24)。このような場合には、判例の不遡及的変更という手法を用いるべきとする見解もある(25)
[49頁] しかし、都教組事件多数意見を生かそうとした、本判決における少数意見は、「大部分が合憲的な制限、禁止の範囲に属するようなもの」であるときには合憲限定解釈などによるべきであるとするが、殆どの争議行為が暴力を伴わない、短期の、労働条件向上等を目的としているという現状と合わないばかりか、都教組事件多数意見がそれを「争議行為に通常随伴する行為」だとしたこととも矛盾しよう(26)。本判決の少数意見は無理に都教組事件の正当化を試みて、理論的にも苦しい立場に追い込まれた。何れにせよ、合憲限定解釈という手法は、公務員の争議権制限と刑罰という場面で、行き場を失ってしまったのであった。

     3 諸検討 戻る


 このようにして、合憲限定解釈は、人権救済的な判例法理としては退場を余儀なくされたのであるが、果たしてこの手法をどのように考えたらよいのであろうか。
 当然のことであるが、上位法と相容れない下位法は無効である。そして、直截にそうではない場合でも、上位法に沿うように下位法は解釈されるべきである(27)。また、民主的正当性に関して政治部門に一歩譲らねばならない裁判所が、議会制定法を法令ごと違憲無効と判断することには慎重でなくてはなるまい(28)。このような一般論からすれば、合憲限定解釈の正当性は否定できない(29)。そこには、合憲拡張解
釈も理論的に含まれる(30)が、殆どの場合は限定解釈である。実際、単なる縮小解釈であると理解されてきたものの中にも、その背景として憲法上の権利への配慮があったのではないかと思われるものもあり(31)、憲法適合的解釈の要請は相当の効力を発揮しているように[50頁]も思える。
 そう考えると、法令の唯一の意味が過不足なく憲法適合的である場合を除いて、殆どの法令は合憲限定もしくは合憲拡張解釈をする余地があるということになろう(32)。しかし、合憲限定解釈は法文を変えず、解釈によって権利制限の幅を変えようというのであるから、それが法的安定性を害すること、予見機能を害するとも否定できない(33)。ここで予見するのは裁判官ではなく一般人であって、一般人が不意打ちで処罰・不利益処分を受けることを避けることに重点があることが重要である(34)。安易な合憲限定解釈の乱発は、人権保障の観点からも問題であろう。そのため、合憲限定解釈を全部否定・全部肯定することは難しく、あくまでも現行憲法の解釈論として、いかなる場合にどのような合憲限定解釈が許容されるのかを問題にすべきであると考えられる(35)
 合憲限定解釈には確かに、法令の人権制約の範囲を縮小させて、裁判所に救済の余地を与えるという、司法積極主義的な効用があると言えよう(36)。特に、最高裁が法令の全面合憲判断を繰り返してきた中では、下級審が抵抗として行う合憲限定解釈には司法積極主義的だとの評価があることも否めない(37)。ところが、都教組事件を先例として葬った以降、実際に最高裁が合憲限定解釈を用いる際には、人権救済というよりは法令の正当性を維持する場合が多い(38)。「不必要なあるいは未熟な違憲判断の発生を防止すること(39)」が必要だという考え方も、これと軌を一にする。例えば、公職選挙法二三五条の二第二号の「報道又は評論」を限定解釈した上で、選挙運動期間にのみ刊行された新聞に候補者を批判する記事を書いた者を有罪とする判断がある(40)。このほか、福岡県青少年保護育成条例事件判決(41)、税関検査事件(42)、自動車操縦者の事故報告義務に関する旧道路交通取締法違反事件(43)などが有名である(44)。要するに、最高裁は合憲限定解釈の性格を有する判断して法令の正当性を守ることが多く、それどころか、最高裁が現在機能させているのはそれだけなのである(45)。全農林警職法判決で合憲限定解釈を論難した最高裁が、[51頁]ほぼ同様の解釈を、法令の擁護のためには次々と行っていると言ってよい(46)。端的に言えば、人権保障の価値よりも立法に含まれている利益を優先していると思われ(47)、合憲限定解釈は司法消極主義的な働きをしているのである。合憲限定解釈という技法は、そのままでは司法積極主義的にも司法消極主義的にも働き得るものであり、それをどちらかに働かすには何らかの磁場が必要だということが言えよう。
 だが、ここで合憲限定解釈という技法を用いる際に疑問が生じる。人権の制約は必要最小限でなければならないが、当該不利益処分が必要最小限かはひとえに、憲法解釈の問題である(48)、ということである。どこまでの規制が合憲で、どこからが違憲の規制かは、憲法上決せられる。ここで合憲限定解釈を行ったことは、対象法令が憲法上許されない広汎な規制であったということをまず認定したということである(49)。ところが、合憲限定解釈の結果、当該法令そのものが残るということは、合憲・違憲の境界線を解釈で補うことにより、違憲の過度に広汎な規制部分を含む法文が残るということである(50)。だが、それでもなお、ドラスティックな法令違憲の判断を避けるために合憲限定解釈を使うということである(51)
 そして、通説的な二重の基準論に従えば、合憲限定解釈が許される限度は、当該法令が制約する人権の種類によって決まってくることになる筈である(52)。人権条項により違憲審査基準や合憲性判断基準が異なるものとされているからである。表現規制立法がもし過度に広汎な規制であれば、端的に文面無効ではないか、という疑問が生じる。例えば煽動処罰規定であれば、通説的にはここで「明白かつ現在の危険」基準が登場しようが(53)、むしろそれは、表現内容をも問題としたブランデンバーグ基準が用いられるべきであるだろうし、加えて当該表現を処罰する条項が明確であることが必要である(54)から、それに反する刑罰法規は文面違憲となるのが筋であろう(55)。即ち、このような憲法上の問題が残るときには、法令違憲に戻ってくるべきであるのであり(56)、精神的自由の制約の場面[52頁]では、合憲限定解釈はあまり使われるべきではないように思われる(57)
 また、都教組事件の多数意見のような手法は、既に法文の書き換えに達しているのではないか、という強い批判もある(58)。あまりに限定した解釈が、かえって条文の素直な読み方と乖離することも十分考えられる(59)。そのような手法は、立法権の侵害であり、許されないとも言える。このため、法文の書き換えに達しているような合憲限定解釈は許されないという主張もよくある。しかし、何をもって「法文の書き換え」と判断するかは難しい。結局のところ、合憲部分の画定が明確であり、憲法上の権利行使を萎縮させないものであることが必要だ、ということに尽きるのではなかろうか(60)。特に表現規制立法などの場合はそうである。しかし、それをクリアしても、解釈により広義・狭義の二義が生じるとすれば、そもそもその法文は明確ではないということである。刑法一七五条を巡って、「わいせつ文書を端的な春本に限るとするまでで、これを超えて処罰範囲をさらに具体的な法益侵害の現実的危険を伴う」囚われの聴衆と未成年者の保護「の場合に絞ることは、解釈の限界を超える(61)」という見解は、その一例である。そう考えると、合憲限定解釈は、法文が明確でなければならないとする明確性の原則と相対立する面を有すると言わざるを得ない(62)。この点でも、表現規制立法について用いられる余地は狭まったという感があるのである。都教組事件でも、煽動処罰規定を法令違憲とすべきだったという批判は多いのである(63)
 表現規制とほぼ同様のことが、明確性の原則が妥当されるべき刑罰法規一般についても言える。最高裁判決の中には、この分野で合憲限定解釈を用いて、処罰を合憲としたものが、前述のように多かった(64)。確かに、刑罰法規について合憲限定解釈を用いることは、当罰性をもつものだけを処罰の対象としていくことであって、憲法三一条に反するものではないという理解も示されている(65)。また、合憲限定解釈が適切に行われていれば、国民への適切な告知となる、という指摘もある(66)。少なくとも、合憲限定解釈は人権保護的に働き、罪刑法定主義に寄与[53頁]し得るのであり、それを否定して違憲的内容の法文を生かすことに疑問を呈する声もある(67)。そこで、合憲限定解釈を合憲部分確定型と違憲部分確定型があるとして、合憲部分確定型であれば将来の萎縮的効果を縮減できるとする見解もある(68)。つまり、司法積極主義的な合憲限定解釈を随時行うことが望ましいという主張が、多くなされているのである。
 しかし、刑罰法規を念頭にしながら、法令の規制が過度に広汎な場合、非常に多岐に解釈されるような用語を用いている場合、もしも法令違憲の判断による混乱の恐れがないならば、合憲限定解釈を採らずに法令を端的に違憲と言うべきである旨の指摘もある(69)。そのような場合にまで合憲限定解釈を行使することは、憲法が裁判所に付与した違憲審査権を無にするものだと言わざるを得まい(70)。例えば、全農林警職法事件などで問題となった、争議行為に通常随伴するかどうかが刑事罰の対象か否かを決めるという基準は、刑事法の解釈基準としては甚だ曖昧である(71)。また、違法性の強弱により法律の適用を区別すると言っても、その限界は不明確でもある(72)。このため、刑罰法規を保護するための合憲解釈は、明確性の原則に反し、基本的には許されないと言うべきであろう。
 だが逆に、限定解釈は、不明確な法文の意味を明確にするためには行われるべきであろう(73)。刑法の解釈は、明確性の要請とは裏腹に、相当論争的であることも多く、一般人には不明瞭なことも多いようである。人権救済的なものであれば憲法上問題はなく、単なる刑罰法規であれば、表現規制法令のときのような萎縮的効果の問題も希薄であると考えられる。このため、刑罰法規が違憲部分を有する場合は法令違憲を原則とするが、その部分が例外的であって、この部分の違憲部分を画定した合憲限定解釈により、条文の意味を明確にできるときは、このような解釈が許容されると考えられる。この点は、刑罰という人権侵害の重大性に鑑みた考慮であると言えよう(74)。その意味では、可罰的違法性論とは、刑法解釈論に姿を変えた憲法論だとも言えなくはない。刑罰法規を合憲限[54頁]定解釈できるのは、このように限られた場合なのではないかと思わざるを得ない。
 ところで、学説の多くは、司法審査基準として中間審査基準の多用を考えている(75)。もしも、ここで素材にしてきた労働基本権を精神的自由に準じて考えるのであれば、そこでも合憲限定解釈という手法は厳しい制約に服するべきであるという見解もある(76)。また、公務員の労働基本権を正当化する際に登場する、財政民主主義や公務員の争議権の代替措置等の議論は、法律上の制度を根拠としているが、それをもって争議権の制約が許されるかは憲法二八条の問題である(77)。また、刑罰法規だから「絞り」を要求するという主張は、刑罰ではなく、解雇という民事的不利益であれば構わないという結論を導き易い(78)。実際問題としても、解雇は当該労働者にとって、軽微な刑罰より重大な不利益だとも言えよう。もしそうであるならば、労働基本権の制約の場面でも、合憲限定解釈を司法消極主義的に用いることはできないであろう。
 しかし、労働基本権は経済的自由と同程度の司法審査基準で十分とする見解もある(79)。だが、それに従っても、少数の労働者の権利制限をどこまで民主的多数決に委ねてよいか、生活の根拠を失うような解雇を含む法文についても安易に合憲性を認めてよいかは、更なる検討が必要であろう。そしてもしそうであれば、過度に広汎な規制は法令違憲であるし、そうでなければ、個別の事例に従って適用違憲が通常ではないかと思われる。果たして、この分野でも合憲限定解釈の可能性をどこまで広げてよいかは疑問であるかもしれなかった。
 では、合憲限定解釈は司法消極主義的に用いられることはないのだろうか。この技法が正面から法令違憲との判断を避け、違憲判断を慎重に行使するという意味を持つことは勿論多言されている(80)。そして、無理な合憲限定解釈を続けることは、その手法への信頼も揺るがしかねない(81)とは言え、法文の解釈は一般人が自然に採用する解釈でなければならないというわけでもない(82)。つまり、厳格審査が妥当するような表現規制立法であるとか、刑罰[55頁]法規ではないのであれば、国民主権原理を擁する日本国憲法下において、立法権を尊重した形での使われ方も許されるように思われる。
 そればかりではない。合憲限定解釈がなされるときには、当該人権規定についての憲法解釈の当否を終局的な争点とされており、その人権がどこまで制限され得るかについての裁判所の判断がなされていると言うべきであろう(83)。そうだとすれば、もしも司法消極主義を徹底させた場合には、合憲限定解釈という妥協的な判決技術は採用する必要がなくなるであろう(84)。というのも、人権救済的に付随的違憲審査の下で用いるのであれば、当該事件に法文を適用する限り、このような解釈がなされ得るならば合憲である、というのが原則ではなろうかと思われる。言わば、「直面すべき憲法問題につき違憲の疑いすら裁判所が懐かないとき(85)」に当たろう。緩やかな合理性の基準の下では、それが無審査ではない(86)とは言え、その解釈に何らかの合理性があれば、合憲と言うべきであるからである。そして、法令に何らかの合理性を認めるということは、究極の合憲解釈であるとも言える。その結果、合憲的な「合理的解釈がただ一つしかない場合(87)」となってしまうのである。その上で、当該事件当事者に適用する限りで違憲であれば適用違憲と判示し、なおかついかなる当事者に適用しても違憲となるときに初めて法令違憲を宣言することとなろう(88)。そう考えると、経済的自由の規制の場面では、精神的自由などの場合とは別の意味で、合憲限定解釈の余地がどれだけあるかは疑問となってこよう。どう解釈しても法令が違憲であるから、法令全部を違憲とするまでではないが、明確に違憲の広義の解釈があるときに、その解釈を切り取ることぐらいが、この場面では予定されているだけのように思われるのである。
 思うに、合憲限定解釈の余地は、理屈の上からも、法文の広大さに比例すると言えよう(89)。それが法令違憲であることは難しく、抽象的にならざるを得ない包括的な規定が、どのように適用されても全く合憲であることも考[56頁]え難いからである。このため、合憲限定解釈が最もよく妥当するのは一般条項である、ということになるのではないだろうか(90)。その場合、精神的自由を制限する条項については、過度の制限や不明確さが残らないように厳しく限定した解釈を求められるし、経済的自由を制限する条項については、明らかな違憲的な広義の解釈だけを捨象すればよいことになろう。私法の一般条項を舞台に、複数の人権について考慮せねばならない場合を、学説は「憲法の第三者効力論」として議論してきたように思われるのであるが、複数で特殊な討論に頼ることなく、一般条項はそれぞれの憲法上の要請から解釈上の制約を受け、その合憲的な幅の中で裁判所が決定をなすことが、憲法上要請されていると言えばよかったように思われる。

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 本稿は、合憲限定解釈という憲法訴訟上の技法について検討を進めてきた。この手法は、理論的にはいかなる憲法判断の場面でも妥当する筈であるが、二重の基準論がその多くを阻み、実際にはそれが表に出ることは稀であるというように思われる。この手法は、比較的具体的な条項については、それが表現規制法規であれ、財産権規制条項であれ、それぞれ別の意味であまり用いられる余地はないと言うべきである。その意味では、都教組事件において、煽動という、表現を処罰する条項で目立って用いられたことは、合憲限定解釈にとって不本意だった。そうではなく、広大な守備範囲を誇る条項の範囲を適切に制限し、具体的事件の解決を図るときにこそ有効な手法だったのではなかろうか。そして、その際にも二重の基準論などが妥当することを忘れるべきではないの[57頁]である。
 ところで、合憲限定解釈は適用違憲とは概念的に区別される。適用違憲は、合憲限定解釈が不可能・不適切である場合に、法令を当該事件に適用することが違憲であるか、合憲限定解釈が可能であるのに当該事例において行われず、その結果、違憲的適用がなされたというものだとされる(91)。そうなると、法文の合憲部分と違憲部分を分離できる合憲限定解釈と、そうではない適用違憲とは理論的に異なり、理論的には前者が先行するようにも思われる。だが、適用違憲の典型的な場合は、合憲限定解釈に類似するという見解もある(92)。また、合憲限定解釈は、ある法文が特定の意味を持たないことを言いながら、別の意味の憲法判断は回避しているのだとすれば、機能的には適用違憲に似ているとも言える(93)。そして、適用違憲と合憲限定解釈のどちらを先に行うべきかという区別はないという見解もある(94)。実際にどうであるのかは、なお不分明である。適用違憲について検討を加えることが、筆者のこの先の課題であろう。

[付記] 本研究は、平成一七年度〜二〇年度日本学術振興会科学研究費基盤研究(C)一般による研究成果の一部である。