(1)外務省編『日本外交年表竝主要文書』上、原書房、一九六五年、二三二頁。引用文中の 〔  〕 は、関が補ったことを示す記号である。以下、同じ。

(2)朝河貫一の外交論については、関静雄『大正外交―人物に見る外交戦略論』ミネルヴァ書房、二〇〇一年の序章を参照せよ。

(3)朝河貫一『日本の禍機』講談社、一九八七年、一三一〜一三二頁。

(4)デュガルド・クリスティー著、矢内原忠雄訳『奉天三十年』岩波書店、一九三八年、二二八頁。

(5)同右、二六三〜二六四頁。

(6)外務省編『日本外交年表竝主要文書』上、二五九頁。

(7)同右、二六一頁。

(8)同右、同頁。

(9)同右、同頁。

(10)同右、二六二頁。

(11)同右、同頁。

(12)同右、同頁。

(13)同右、二六一〜二六三頁。

(14)外務省百年史編纂委員会編『外務省の百年』上、原書房、一九六九年、五〇七頁。

(15)同右、五〇七〜五〇八頁。

(16)児玉流勢力範囲論の同時代の典型的な一例として、有賀長雄の「満洲委任統治論」を挙げることができる。その趣意は、上野隆生によると、
 「〔満州については〕 日本は容易に干渉の手を引くべきでは無い。……現在のまゝ事実の占頷をいつまでも続け 〔よ〕。……租借権を譲受けては我が行動の範囲がせまいから、統治権全体を引受けてしまへ」
 というものであった。上野隆生「転換期における日本の『発展論』」『アジア近代史』第四号、二〇〇一年三月、三五頁。

(17)栗原健によると、「協議会」は「伊藤統監の主導によって、満州問題は一応形式的には調整され」、満州の軍政は順次撤廃された。しかし、新設の関東都督府と南満州鉄道株式会社のそれぞれの長には、長州閥の大島義昌陸軍大将と、児玉の「門下生」で彼と同じ「大陸経営論」者であった後藤新平が就任したこともあって、「その後、大島・後藤対林外相および現地領事との間には、つぎつぎと扞格を生ずるに至る」(『外務省の百年』上、五一〇〜五一一頁)。

(18)外務省編『日本外交年表竝主要文書』上、二八二〜二八四頁。

(19)朝河貫一「日本の対外方針」『国民之友』民友社、一八九八年六月、七七〇〜七八三頁。

(20)朝河貫一『日本の禍機』三頁。

(21)同右、一二九頁、四〇〜五一頁。

(22)同右、一三六〜一三七頁。

(23)姉崎正治『世界文明の新紀元』博文館、一九一九年、宇垣一成『宇垣一成日記』第一巻、みすず書房、一九六八年。
 なお、姉崎の外交論と宇垣の外交論については、関静雄『大正外交 ― 人物に見る外交戦略論』のそれぞれ第三章と第二章・第四章を参照せよ。

(24)姉崎正治『世界文明の新紀元』七三〜八○頁。

(25)同右、一九五〜一九六頁。

(26)同右、五七頁。

(27)同右、四八五頁。

(28)幣原平和財団編著『幣原喜重郎』幣原平和財団、一九五五年、二五六頁。

(29)排日移民法に関する幣原外交については、関静雄『大正外交 ― 人物に見る外交戦略論』の第七章を参照せよ。

(30)姉崎正治『世界文明の新紀元』四九三頁。

(31)例えば、姉崎正治による批判は、『世界文明の新紀元』二一一頁を、徳富蘇峰による批判は、徳富猪一郎『大戦後の世界と日本』民友社、一九二〇年、六〜七頁を参照せよ。

(32)水野広徳「軍備縮少と国民思想」『中央公論』一九二二年一月号、四四頁を参照せよ。

(33)Michael A. Barnhart, Japan Prepares for Total War - The Search for Economic Security, 1919-1941, Cornell University, 1987, p.18.

(34)『宇垣一成日記』第一巻、一九九頁、二〇三頁。

(35)同右、同巻、二二一頁。

(36)同右、同巻、一九六頁、二〇三頁。

(37)同右、同巻、二二五頁。

(38)同右、同巻、二二三貫。

(39)同右、同巻、一〇〇頁、一一九〜一二一頁、一五三〜一五六頁、一五八頁、一八七頁。

(40)同右、同巻、一五〇頁。

(41)同右、同巻、二二八頁。

(42)同右、同巻、二〇五頁、二二八頁。

(43)同右、同巻、二三五頁。

(44)同右、同巻、二二八頁。

(45)外務省編『日本外交年表竝主要文書』三三一頁、三一八頁。

(46)小林龍夫編『翠雨荘日記』原書房、一九六六年、六二九頁。

(47)新四国借団問題をめぐる伊東・田中論争と原敬首相の裁定ぶりについては、関静雄『日本外交の基軸と展開』ミネルヴァ書房、一九九〇年、第四章を参照せよ。文中の引用部分は『翠雨荘日記』六一一〜六一二頁。

(48)同右、同頁。

(49)原奎一郎編『原敬目記』第五巻、福村出版、一九六五年、一二八〜一二九頁。

(50)同右、同巻、二三六頁。

(51)外務省編『日本外交文書』大正九年、第二冊上巻、文書番号二一二。

(52)以下に引用した幣原と小川の発言は、特に注のないもの以外はすべて『帝国議会衆議院議事速記録』(東京大学出版会)の大正一五年一月二一日、二二日、二五日、二月二日の議事録に依拠している。幣原・小川論争は二月二日に行われた。

(53)小川・幣原論争について、詳しくは、関静雄『大正外交 ― 人物に見る外交戦略論』の第八章を、さらに詳しくは、関静雄「幣原外交と郭松齢事件」『帝塚山教養学部紀要』第五四輯、一九九八年を参照せよ。

(54)『帝国議会枢密院議会議事録』東京大学出版会、昭和二年四月一七日の議事録。

(55)山浦貫一『森恪』森恪伝記編纂会、一九四〇年、五八○頁。