[1頁]論  説

    大 正 外 交 の 基 調
             国際協調論と勢力範囲論

                                   関     静  雄

     目  次

第一節 日露戦争後の満州問題
一 領土保全・機会均等主義 二 朝河貫一と日露戦争
三 中国人の反日感情 四 英米政府の対日抗議
五 伊藤博文の対英米協調論 六 伊藤博文の日中友好論
七 児玉源太郎の満州経営論 八 伊藤博文の反論
九 朝河貫一の『日本の禍機』 十 朝河貫一の予言的諫言

       
第二節 第一次世界大戦後の日本の進路
一 ホッブズ流対グロティウス流 二 姉崎正治の国際協調論
三 内田康哉外相の国際協調外交 四 国際社会における逆流
五 国内社会における逆流 六 宇垣一成の戦争不滅論
七 総力戦準備論における中国 八 対中二段階戦略論
九 勢力範囲論における対英米軍備  

  
[2頁]第三節 第一次世界大戦後の満蒙問題
一 新四国借款団問題 二 伊藤巳代治の勢力範囲撤廃論
三 田中義一陸相の満蒙除外論 四 満州特殊権益と日米協調
五 満蒙秩序維持の責任者 六 満蒙秩序紊乱の認定基準
七 民族的覚醒か統治無能力か 八 小川平吉の満蒙赤化論と援張論
九 幣原喜重郎外相の反論 十 南京事件と幣原外交の退場
十一 田中外交の登場と森恪の演説  

     第一節 日露戦争後の満州問題

   一 領土保全・機会均等主義 目次に戻る
 日露の戦争が一年目を迎えようとしていた一九〇五(明治三八)年一月、高平小五郎駐米公使は、小村寿太郎外務大臣の訓令に従って、ルーズベルト大統領への申入れを執行した。申入れは、文中、日本政府の対満基本方針に言及し、次のように言明している。
  「帝国政府カ満洲ニ於ケル機会均等ノ主義ヲ執ルモノタルハ自ラ累次且ツ明確ニ声明セル所ナリ帝国政府ハ今猶ホ右ノ主義ヲ抱持スルモノタルヲ茲ニ確言ス……満洲ニ於ケル清国領土保全ノ主義タル 〔ものについては〕 露国カ過去ニ於テ又現在ニ於テ不法ニ占有セル地域ノ全体ニ亘リ維持セラルヘキモノタルハ論ヲ待タサ[3頁]ル所……(1)」。
 確かに、ここに言明されている満州における領土保全主義と機会均等主義という二原則は、特に義和団事件後にロシアが満州を占領して以来、日本政府の一貫した対外方針であり、対外宣言であり、対外的約言であった。日英協約の前文しかり、日露交渉の目標しかり、日露戦争の目的またしかりである。さらに次に来る講和交渉もまた、この二原則に基づいて推進され、その結果として、この二つの主義に沿った講和が成立した。従って、満州における領土保全主義と機会均等主義は、義和団事件後の日露開戦前から日露講和に至るまで、日本が英米と共有していた対中国外交の指導原理であり、またその間露骨なロシアの侵略主義に苦しめられていた中国人自身の歓迎する原理でもあった。

   二 朝河貫一と日露戦争 目次に戻る
 満州の開放・閉鎖を一争因とする日露戦争が始まったとき、歴史学徒としてアメリカに在った朝河貫一(2) は、開戦後には日本擁護のため、英語の論文を発表したり、全米四〇数か所で講演を展開したりして、ついには『日露衝突』(The Russo-Japanese Conflict)という英文の著書まで書き上げた。
 この大車輪の活躍の焦点は、日本は自国の存亡を賭けて戦っているだけでなく、また同時に清国の主権の尊重及び満州における機会均等という主義・原則のために戦っているということを、直接欧米人に訴えることにあった。この二原則に準じた日本の対外方針こそ、「世界の文明が東洋において要求するところ」と完全に一致していると、彼はその正当性を信じていたのである。
 しかしこれは曇りなき信念ではなかった。アメリカ人に向かって日本の正義を説いて回っている間も絶ゆるこ[4頁]となく、心中の声が朝河に囁きかけていた。「汝の論は今日のみ善し。されども明日より世を欺き己を欺く偽善の言たらざるなきか」と(3)

   三 中国人の反日感情 目次に戻る
 戦後、不幸なことに、朝河の不安の方が的中した。ロシアに勝った日本は、清国人のための解放者としてではなくて、ロシア人からの権利の継承者、排他的な自己利益の追求者として満州に入って来た。戦前においてはロシアの軍政に苦しんでいたので、「日本軍の進出を渇望し、これによって自分達の自由が恢復せられるだらう(4) 」と期待していた中国人も、戦後間もなく、いわば北条の後に足利が来たという失望を感じた。
 このあたりの中国人の対日感情の変化を、一八八三(明治一六)年来、奉天に伝道師として滞在していたイギリス人クリスティーは、次のように語っている。
「彼等 〔日本人〕 は救い主としてではなく勝利者として来り、支那人をば被征服民として軽侮の念を以て取扱つた。
 平和になると共に、日本国民中の最も低級な、最も望ましくない部分の群衆が入つて来た。支那人は引きつづいて前通り苦しみ、失望は彼等の憤懣をますます強からしめた(5)」。

   四 英米政府の対日抗議 目次に戻る
 このような渡満邦人の利益を、在満日本軍人が中国人の利益だけでなく英米商人の利益をも犠牲にして保護したために、彼らからの苦情が英米本国政府に殺到した。これを受けて英米政府は日本政府に対して厳しい抗議を[5頁]行った。アメリカは、一九〇六年三月、満州における日本の閉鎖的な行動に対して、次のように日本政府の「猛省」を促して来た。
 「露国カ該地方ニテ実利ノ国家的独占ヲ為サントシテ失敗シタルノ企図ニ踵キ満洲ニ於テ之ト均シキ日本ノ利益ノ排他的扶植ハ痛切ナル失望ノ起因タルヘシ(6)」。
 また同月、マクドナルド英国大使は、本国政府の抗議を西園寺公望首相兼外相に伝えただけでなく、伊藤博文韓国統監府統監に密書を送り、英米商人の日本に対する不満を訴えた。
 「目下英米ノ貿易社会ニ殆ト公言セラレ居ルハ満洲ニ於ケル日本ノ軍官憲ハ軍事的動作ニ依リ外国貿易ニ拘束ヲ加ヘ満洲ノ門戸ハ曩ニ露西亜ノ掌中ニ在リシ時ニ比シ一層閉鎖セラレタルコトナリ而モ其閉鎖主義ハ専ラ欧米人ニ対シテ行ハレ日本人ニ対シテハ開放主義ヲ実施シツツアリト云フ」。
 続けて大使は、このような現在の日本政府の閉鎖政策は、これまで日本に「同情」して戦費を供給した英米等を全く「疎隔」する「自殺的政略」だと評して、伊藤統監の注意を喚起した(7)

   五 伊藤博文の対英米協調論 目次に戻る
 伊藤博文は、満州における日本の排他的行動が英米の抗議を惹起したことについて、憂慮を深めていた。その訳は、第一に、日本の軍部自身が唱えているようにロシアによる対日復讐戦が早晩起こるものとするならば、満州問題に関して「今日ノ儘ニテ進マハ日本ハ与国ノ同情ヲ失ヒ将来開戦ノ場合ニ於テ非常ナル損害ヲ蒙ルニ至ルヘシ(8)」と考えたからである。
 第二の理由は、戦後の厳しい日本の財政状況を重視したからである。日本は、日露戦争では、日清戦争と違っ[6頁]て、莫大な外債を募りながら一ルーブルの賠償金も取れなかった。このため戦後には一段と厳しい財政状況に追い込まれ、その結果、財政的に以前にも増して対英米依存度を深めていた。
 このような内外の状況を、伊藤は非常に深刻に受け止めていたと思われる。というのは、彼は、日露再戦のない場合でさえも、日本にとって英米の同情が絶対に必要なことに何ら変わりのないことを、次のように強調しているからである。
 「愚見ニ依レハ縦令近キ将来ニ於テ戦争ナシトスルモ財政上ノ見地ヨリ観察シテ日本ハ少クモ英米人ノ人心ヲ満足セシメ其同情ヲ得サルヘカラス(9)」。
 戦前には対露協調を日英同盟よりも優先させる日露協商論を説いていた伊藤は、このようにして戦後には、満州における目先の小益に囚われずに何よりも英米の同情を繋ぎ止めておくことが真の国益に適うと説く、対英米協調優先論者に変身したのである。

   六 伊藤博文の日中友好論 目次に戻る
 伊藤博文の憂慮は、対英米関係に限られず対中関係にも及んでいた。彼は袁世凱を清国の政治家の中でも最も日本に同情を寄せている人物とみなしていたが、その袁すら、戦後になって、「日本ニ対シテ不満ノ念ヲ抱キ日本ノ満洲ニ於ケル行動ヲ以テ北京条約ノ違反トナシ 〔ている〕」という事実を知って驚き、このまま事態を放置すれば、さらには中国人全体が反日に走りはしないかと恐れていた(10)
 「日本ハ清国ニ対シテ指導者勧告者ノ位置ニ立タサルヘカラス(11)」と考える現実主義者の伊藤は、この自国益達成という功利的観点から、このような反日的な、反抗的な中国が出現しそうな現況を日本にとって甚だしい不利と[7頁]見て、次のように日中友好論を説いた。
 「可成清人ノ不満ヲ買ハサル様努ムルハ日本ニ取リテ最モ適当ナル方策ナリ……満洲ニ於テモ清国人ノ満足スル方針ヲ取ルヘカラス(12)

   七 児玉源太郎の満州経営論 目次に戻る
 右に述べて来たように、日露戦争後の満州における日本の排他的行動は、英米と中国の対日感情を悪化させた。この急変を、伊藤博文は他の誰よりも深く憂慮して、西園寺公望首相に「満州問題に関する協議会」の開催を要請した。かくして、一九〇六年五月、元老、政府、軍部の主立った者がすべて一同に会した「満州問題に関する協議会」が開かれた。
 席上、元老伊藤博文は、戦争中の公約に反して満州で「閉鎖主義」を続けるならば、日本は英米の同情も中国の同情もともに失うことになるとその憂慮を語り、続けて、「門戸開放主義」による対英米協調と日中親善こそ、真の国益に適うという持論を披瀝、開陳した(13)
 出席者は概ね伊藤の議論に賛成であったが、批判の矢面に立たされた恰好の陸軍を代表していた児玉源太郎参謀総長は、次のように満州の特殊性を強調しつつ、それを踏まえた今後の対満政策方針を提案した。
 「満州経営の上から見れば、将来種々なる問題が発生する事であらう。而して是等の問題が一度内地に移れば、各個々別々の主管となって、取扱手続は実に煩雑極まるものとなる。日本の勢力を扶植してある南満州の開港場は、漢口とか上海とかと異なるのは云ふ迄も無い。故に満州に於ける主権を、誰か一人の手に委ね、前陳したやうな煩雑なる事務を一箇所に纏めて、一切を指導する官衙を新に組織してはどうであらう」〔傍点[8頁]は関が付加した(14)〕。

   八 伊藤博文の反論 目次に戻る
 この「満州経営」とか「満州に於ける主権」とか、あるいは強力な独立的出先「官衙」の新設とかという児玉源太郎の発想が、伊藤の逆鱗に触れたようで、伊藤は次のように激しく児玉を難詰した。
 「余の見る所に依ると、児玉参謀総長等は、満州に於ける日本の地位を、根本的に誤解して居らるるやうである。満州方面に於ける日本の権利は、講和条約に依って露国から譲り受けたもの、即ち遼東半島租借地と鉄道の外には何も無いのである。満州経営と云ふ言葉は、戦時中から、我国人の口にして居た所で、今日では官吏は勿論商人なども切りに満州経営を説くけれども、満州は決して我国の属地ではない。純然たる清国領土の一部である。属地でもない場所に我が主権の行はるる道理は無いし、随つて拓務省のやうなものを新設して事務を取扱はしむる必要も無い、満州行政の責任は宜しく之を清国に負担せしめねばならなぬ(15)
 児玉が言う「経営」といい「主権」といい、その精しい具体的な内容が判然としないので、両者の論争は十分に噛み合ったものとはなっていないが、二人の外交論のおよその傾向は紛れのない程度に現れている。すなわち、その傾向とは、在満権益を条約上のものに限定する伊藤の国際協調論的志向と、条約上の権益に止まらず地域概括的な権益をも、存満権益として想定している児玉の勢力範囲論的志向とである(16)
 両者の「協議会」での論争は、形の上では伊藤の提案に沿った線で決着したが、実際の外交行動の上では、「協議会」以後も日本は、日露協商路線を採用することによって、満州における互いの勢力範囲を認め合い、この路線下において排他的南満経営者への道を着々と切り開いていったのである(17)

[9頁]   九 朝河貫一の『日本の禍機』 目次に戻る
 「満州問題に関する協議会」から一年半経過した一九〇七年一一月、日本の現状と将来に対する元老伊藤博文の憂慮は、尽きることなく深まるばかりであった。彼はその懸念を次のように漏らしている。すなわち、満州における日本の「利己主義」の結果、英米の「資本ノ融通」が「途絶」しはせぬか、「日清間ノ戦争」が「再演」されはせぬか、日本が世界において「孤立ノ悲境」に陥りはせぬか、と(18)
 満州における門戸閉鎖主義が日本の孤立と日中戦争を招く恐れがあると憂慮したのは、元老の伊藤だけではなかった。あの在米中世史家の朝河貫一もまたそうであった。彼の場合、さらに日米戦争までも予想するほどであった。彼が憂国の書『日本の禍機』を執筆したのは、この満州問題に排日移民問題と日米海軍問題とが加わって、日露戦争後の日米危機がピークに達した一九〇八年のことであった。
 朝河の日本外交に関する処女論文「日本の対外方針」(一八九八年)(19)で明らかにされているように、彼の外交論の基本的枠組みは、「世界史」・「文明」・「正義」などという概念から構成されていた。そしてこれらのキー・ワードの具体的表現は、「清国主権」と「機会均等」の尊重という二原則であった。彼の新著『日本の禍機』もまた、先の『日露衝突』と「同一問題の継続」として、また「同一の理」によって書かれていると、彼自らが打ち明けているように(20) 、この二原則の擁護がその執筆の動機となっていた。

   十 朝河貫一の予言的諫言 目次に戻る
 朝河によれば、「侵略主義」と「門戸閉鎖主義」の「旧外交」を代表するロシアを、「新外交」の代表日本が、[10頁]満州で撃ち破って、東洋に「清国主権」と「機会均等」の二大原則を「主義」として確立したのは、「世界史」に対する日本の偉大な貢献であった。ところが、戦後の日本は、米・中の、また彼自身の期待をも裏切って、「主義」の実現に努力することなく、「世界史」の要求に逆らって「私曲」に走った(21)
 続けて朝河によると、この「新外交」を構成する二大原則は、日米関係の未来を決定する根本義である。この原則はアメリカの不動の外交方針であるので、日本の方が「旧外交」を改めないかぎり、日本の国運は、確実に日に月に危うくなって行く。
 さらに朝河は、「日本が、かえって自らこれらの原則を犯して世界史の命令に逆い、ついに清国をして我に敵抗せしめ、米国と争うに至らば……実に世に孤立せる私曲の国、文明の敵として戦うものならざるべからず」と、対中・対米戦争という悲劇を予言し、祖国日本に対して憂国の諫言を呈したのである(22)
 以上見て来たように、日露戦争後に浮上した対満基本政策に関する論争、すなわち、対満外交の原則として門戸開放主義を採用すべきか、門戸閉鎖主義を採用すべきかという論争、言い換えれば、国際協調路線と勢力範囲路線という二つの外交論の闘いは、実際政治の上では後者の勝利ということで決着したかに見えるが、歴史はそれほど単純ではなかった。両論の相克は、大正外交史、とくに第一次世界大戦以降の大正外交史を貫く、鮮明かつ深刻なる軌跡を描くことになるのである。

[11頁]     第二節 第一次世界大戦後の日本の進路

   一 ホッブズ流対グロティウス流 目次に戻る
 本節では国際協調論と勢力範囲論という大正外交史を貫通する二つの流れを描出してみたい。主に依拠する文献は、第一次世界大戦直後に著された姉崎正治の『世界文明の新紀元』と、大戦中とその直後に書かれた宇垣一成の『日記』である(23)。 
 姉崎によると、一七世紀以来、国際政治観には二つの対立する流れがあった。「人間と人間とはやはり狼と狼だ」というホッブズ的な流れと、「戦闘殺戮の惨に拘らず人道には義もあり理もある」というグロティウス的な流れとがそれである。ホッブズ流は、一九世紀になって現れた進化論の誤解・曲解という新潮流と合流して、生存闘争・国際競争一本槍の軍国主義の奔流となり、今次の世界大戦を引き起こした。他方、グロティウス流は、この逆境をしのいで二〇世紀に生き残ったばかりか、大戦という大試練をくぐり抜けた今、国際協調重視の正義人道主義の大流となり、ますますその勢いを強めている(24)

   二 姉崎正治の国際協調論 目次に戻る
 戦後世界に対するこのような観察から、姉崎正治は、日本国民に向かって、鎖国主義的な勢力範囲主義ではなくて開国主義的な国際協調主義の流れに与するようにと、次のように唱えた。
 「日本国民の最も覚醒すべき点は、軍器の自給や、経済の自立といふ如き鎖国的傾向の気風でなくて、世界[12頁]的気運に乗じ、此 〔れ〕 と歩調を保つといふ雄大な開国進取の精神にある」(傍点は原文(25))。
 国際協調論者姉崎はまた、個々の具体的な国際問題も民族自決と国際協調とが結合した「国際的民本主義(26)」の精神に沿った形で解決されていくと信じていた。
「ドイツの敗北は、思想の力に圧せられた結果である。然らば次の幕が世界的デモクラシーの問題で開くのは自然の順序であつて、各国民の自由自決、国際連盟、貿易と移住の自由など、皆此の根本問題の特殊適用に外ならぬ」(傍点原文(27))。

   三 内田康哉外相の国際協調外交 目次に戻る
 確かに姉崎の言う「世界的デモクラシー」は、戦後、一世を風靡した。この世界的風潮は、彼や吉野作造のような民本主義的平和論者ばかりでなく、日本の政策決定者にも少なくとも表層では広汎な影響を与えずにはおかなかった。
 その典型的な例は、後に満州国承認の決意表明として焦土外交を唱えることになる内田康哉外相の発言に見ることができる。一九二三(大正一二)年、彼は帝国議会において正義人道に基づいた国際協調外交の方針を次のように言明している。
 「実に現代世界の大勢は各国共に排他的利己主義を去つて正義と平和の為めに国際協調の達成を図り、協力戮心以て人類の共存共栄の実を挙ぐるに努めてゐることを示しつゝあるのであります。斯くの如きは帝国永遠の利益に合致するのみならず、帝国国運の隆昌を期するの途は右の方針以外他に求むべからざるは帝国政府の信じて疑はざるところであります(28)」。
[13頁] このように、この時期の外交家内田と思想家姉崎の国際政治観は、国際協調主義という点において、外面的には瓜二つであった。だが、この国際協調の順流に対して挑みかかろうとする逆流が存在していなかったわけではない。そこで次は、その内外の逆流の方に目を転じてみよう。

   四 国際社会における逆流 目次に戻る
 先の引用文中において姉崎が挙げていた具体的な問題 ―(一)民族自決、(二)国際連盟、(三)貿易・移民の自由― は、彼の予想通りとはいかなかった。例えば、民族自決主義は国家間の排他的競争を助長する偏狭なナショナリズムに傾く性質を内在させていた。これと国際協調主義とをいかに調和させるか。その困難さを、姉崎は見落としていた、あるいは甘く見ていた。
 またパリ講和会議では、この民族自決の問題がややもすると勝者の恣意または無知によって処理されがちであった。それだけでなく、敗者ドイツはいわば欠席裁判で一方的に「平和」を命令され、日本の人種差別撤廃案は葬り去られ、旧敵国は国際連盟からのけ者にされた。どう贔屓目にみても正義人道・国際的民本主義の精神とはそぐわない戦後処理が往々にして行われた。
 移民問題に関しても、大戦中は一時鳴りを潜めていたアメリカの排日運動が、戦争が終わるやすぐさま再燃した。一九二〇年にはカリフォルニア州で、日本人移民から士地所有権に加えて、新たに借地権まで剥奪する排日土地法が成立した。さらに、一九二四年には悪名高き全国的な排日移民法が上下両院を通過した(29)
 この日米関係にとって有害無益としか言いようがない、日本人の感情を逆撫でするようなアメリカの愚行は、日本人の心の中ですでに崩れつつあった正義人道の国アメリカというイメージに対するとどめの一撃とな[14頁]った。
 国際民本主義に背馳した戦後処理、正義人道に悖戻した排日移民法、確かにこれらは姉崎が擁護してやまないグロティウス的潮流に逆行するものであった。しかし、実害という点からすると、いずれもたいしたことはなかったので、今一つ姉崎が挙げていた、日本の実益、否、生存そのものとかかわってくる具体的問題、すなわち「貿易の目由」、これが維持されている間は、石橋湛山の移民不要説も相当の説得力を持ち、幣原喜重郎の経済外交も求心力を保つことができた。

   五 国内社会の逆流 目次に戻る
 他方、国際環境に負けず劣らず戦後日本の進路を左右する力を持つ、もう一つの要素、すなわち、国内環境の動向は、どうであっただろうか。
 前者には極めて楽天的であった姉崎も、後者に関しては一抹の不安を抱いていた。つまり、「国際的民本主義の実行」の基礎は「国内に於ける民本主義の実行」であるという認識から、この点に関して日本社会に不安を感じていた。そしてこの懸念から姉崎は、日本国民に向かって、「国内に民本気風が実力を有して、閥族の専横を絶滅し、階級の争を杜絶して、一国協心の実を民意発揚の上に築き上げなければならぬ」と呼びかけたのである(30)
 周知のように、戦後、日本国民の間でも軍国主義の株は大暴落し、民本主義株は急騰した。軍人が軍服を着て街を歩くのをはばかるほど、軍閥排撃の風潮は都会に広がり、大正デモクラシーの花は咲き誇った。姉崎の不安は杞憂のように見えた。
 だが、この民本主義の風潮と並行して、戦争は大いにペイするという成り金気分も、負けず劣らず、戦後の日[15頁]本社会に横溢していた。その軽佻浮薄さは、精神の不在、思想的無関心の明証なりと、時を得顔の民本主義の陣営からだけでなく、旗色の悪い国家主義の陣営からも批判を浴び、顰蹙を買っていた(31)
 さらに、一世を風靡したかに見えた民本主義の大流行も、都会でのこのような拝金主義の濁流を圧倒することができなかったばかりか、今一つ日本人の多数が生活する農村部に深く浸透しえなかった。そこでは日清・日露の両戦役で培われた排外的好戦癖が根強く残っていた。戦争すれば必ず勝つ、戦争はペイすると盲信していた日本人がたくさんいたのである(32)
 このような濁流と逆流に加えて、もう一つの見逃せない逆流が渦巻いていた。国際協調主義が主流を占めた一九二〇年代を通じて、軍部内の「 総 力 戦 将 校 」トータル・ウォー・オフィサーズ たちは、目立たないようにではあるが、彼らが引き出した第一次大戦からの教訓として、着々と自給自足・総動員計画を練り上げていたのである(33)。次にこの「総力戦将校」の代表的人物の一人である宇垣一成を取り上げ、彼のホツブズ的社会ダーウィニズム流の勢力範囲論を見てみることにしよう。

   六 宇垣一成の戦争不滅論 目次に戻る
 平和主義が世界の大勢を制したかのように見えた第一次世界大戦後においても、軍人宇垣一成の戦争不滅論の根幹が揺らぐことはなかった。そもそも、彼の信念からすると、生物たる人間に「利己心」とそれから発生する「競争心」とがあるかぎり、換言すれば、「人間の性格」が変わらないかぎり、「永久平和」など「痴人の夢」にすぎなかった(34)
 さらにパリ平和会議さえも、彼にとっては、戦争を含む生存競争不滅の原則の正しさを証明する根拠を提供し[16頁]ているように思えた。すなわち、「人種平等待遇案」の不成立は、「異種類排斥」という「生物界通有の原則」の支配を生物である人間も免れえないという証拠を改めて示し、人種間の闘争の進行がさらに加速したという認識を彼に与えたのである(35)
 このように将来も起こると想定された戦争の具体的な原因として、まず第一に、彼は経済的要因を上げる。彼は、戦後世界において英米は「鉄炮玉」を「算盤玉」に代えた「経済の戦争」を推進するようになると見ていた。だがしかし、それが「武器の戦争」に取って代わるとは考えなかった。それどころか、これを助長するものと推測した(36)
 次に第二の戦争原因として、彼は、世界各国における「社会的」な「現状打破」の気運と、英米による「国際的」な「現状維持」の強制という、「今次の平和の基礎」にある内外の「矛盾」こそ、「世界不安の基」となると指摘した(37)
 そして最後に、字垣は、民族自決の矛盾と小国間の紛争から大国間の戦争が起こる可能性が戦前よりも増大したと、次のように言う。すなわち、パリ会議はヨーロッパの紛争の淵源たるバルカンを「伏魔殿」としたまま、今これに加えて民族自決の名の下に「欧洲中原」に、「独立自存の要素」を欠く多数の「小独立国」を誕生させた。さらに悪いことに、「民族自決」と称しながら、一方では多数のゲルマン民族は異民族の統治下に置かれ、彼らの自決は否定されている、と(38)


[17頁]   七 総力戦準備論における中国 目次に戻る
 このような原因から起こる将来の戦争は、長期戦になる可能性が高いと、第一次世界大戦中から軍人宇垣は考えるようになった。彼は次のように言う。
 将来の「長期の戦争」に耐えて「最後の優勝」を獲得するには、「軍隊」と「国民」と「経済」の三分野での抜本的な改革が必要である。第一に、「軍部内の整理」を断行して「良好なる軍事制度」を確立しなければならない。第二に、「挙国一致」体制を確立するために、「軍を国民化」すると同時に、「国民を軍隊化」しなければならない。第三に、国内に「産業上」と「金融上」の「動員」体制を確立し、同時に対外的に「食糧」だけでなく「資源」の「自給自足」体制を完成しなければならない、と(39)
 要するに、大戦の教訓として、戦争が終わる前からすでに、宇垣は次の戦争も長期戦となる確率が高いという前提のもとに、そのような性質の戦争に勝ち抜く準備として国家総動員体制と自給自足体制の確立、つまり総力戦準備体制の必要を説くようになったのである。そしてこの総力戦準備構想における不可欠の構成要素である「自給自足の経済範囲」の主要部として、彼が着目したのが中国であった。
 「必ずや自給自足の経済範囲は大陸就中支那に及ぼすの必要あり。日支を打つて経済上の一単位となすこと肝要なり(40)」。
 このように、大戦の長期戦化にともなって、宇垣の軍事的経済戦略構想に占める中国の価値はさらに増大していった。今や中国本土は日本の工業製品の販路としてだけでなく、食糧・資源・軍需品の供給源としても不可欠の存在と考えられるようになったのである。

[18頁]   八 対中二段階戦略論 目次に戻る
 この中国を日本の勢力範囲内、彼の言葉で言えぱ、「縄張内」に取り込むという目標を達成するための手段として、彼は平和的手段と武力的手段の二段階戦略を提唱している。まず第一の平和的手段については、次のように利益誘導の重要性を強調する。すなわち、「日支の親善接近」を実現するためには、同文同種という点に訴えるだけでは不十分である。
 「物質打算主義の支那人」に対しては、「日本のみの必要ある経済論」ではなくて、「支那に必要なる利害打算」を具体的に示し、これを資本注入などによって現実化して行かなければならない、と(41)
 第二段階としての武力的手段に関しては、宇垣は中国の排日運動と関連づけて考察している。彼は、大戦後の排日の一因を恐日から侮日へと変化した中国人の対日観に求める。つまり、宇垣は、大戦が英米の勝利に終わり、国際連盟ができたことによって、当分の間日本の「武力」が封じ込まれた形となったために、今や中国人は「日本左まで恐るるの必要なし」という感じを抱いている、とみるようになった(42)
 このように排日の高まりを中国人の侮日傾向の現れと判断したことから、宇垣は、排日運動を単に外交上の、あるいは経済上の問題とはみなさず、「国防上」の問題とみなした。つまり、排日、排貨の根本原因たる「侮日」の気運が高まれば、「自給自足の資源」を絶対的に中国に依存している日本としては、「自己の存立上」、「武力による外科的大手術」を施さざるを得ないが、その「威力」行使の可能性は高まりつつある、とみなしたのである(43)


[19頁]   九 勢力範囲論における対英米軍備 目次に戻る
 この武力的外科手術の実施準備、即ち軍備は、中国に対するものだけでなく、英米に対するものにならざるをえなくなる。というのは、日本の圧伏を企図する英米が中国の排日運動の背後にあると見ていた宇垣は、中国に対する武力行使は「必ずや支那と同時に対米又英の関係が生ずる」と予想していたからである。その結果、たとえその軍備は、彼の見るところでは、中国に死活的利益を有していない英米の参戦を抑止するに足りるだけの程度のものにしても、彼自身も認めているように、「大規模の準備」たらざるをえなかった(44)
 以上のように、宇垣一成は、国際協調論を唱えた姉崎正治とは正に対蹠的に、第一次世界大戦後の日本の進路として、日本の生存と発展に不可欠な自給自足圏をアジア大陸に構築して英米と対抗し、そうすることによって、日本は世界の現状を打破して行くべきだという壮大な勢力範囲論を説いたのである。


     第三節 第一次世界大戦後の満蒙問題

   一 新四国借款団問題 目次に戻る
 ここでは第一節で取り上げた満州・満蒙問題に戻ってみたい。既に見たように、日露戦後、歴代日本政府の対満政策の目的は、伊藤博文の門戸開放論とは逆に、「列国ノ勢力ヲ満洲ヨリ排除」して「満洲ニ於ケル我特殊ノ地位ヲ確保」する門戸閉鎖主義へと向った(45)。この日本の勢力範囲主義に対して、第一次世界大戦後、アメリカは、[20頁]新四国借款団案によって満蒙の門戸を開放しようと、再度日本に戦いを挑んだ。
 この新四国借款団問題を検討した一九一九(大正八)年八月の臨時外交調査会は、新外交を代表する国際協調論者伊東巳代治と旧外交を代表する勢力範囲論者田中義一とが激論を交わす場となった(46)

   二 伊藤巳代治の勢力範囲撤廃論 目次に戻る
 席上、伊東委員は、「理義名分」的には勢力範囲の撤廃がパリ講和会議以来の「世界一定ノ風潮」であり、勢力範囲の維持は国際法の原則からすればほとんど「僭奪」を意味するようになったと、第一次大戦後の国際政治の理念的変容を指摘した。
 このような認織の上に立って、彼は、満蒙権益に関する「地域概括主義」にしろ「列挙主義」にしろ、とにかく「満蒙除外」という発想そのものを否定した。すなわち、満蒙除外の主張は、「世界ノ大勢」に逆行し「欧米列強」との「協調」を破り、日本に危難を招く冒険主義であるとみなした。
 そして結論として、彼は、満蒙における特殊権益の拡張という従来の外交目標を放棄して、「此際英米ト協調ヲ保持シ前途自由競争場裏ニ立チテ英仏等ノ勢力範囲トシタル地域ニ侵入シテ畢生ノ手腕ヲ振フノ覚悟ヲ為サンコト是レ帝国前途ノ長計ナランカ」と主張したのである(47)
 この際、中国本土のみならず満蒙にさえも、経済主義に連結された日米協調主義を適用すべきだという彼の議論は、日米協調主義の始祖とも言うべき原敬首相のお株を奪い、さらにそれを超えた、徹底的な日米協調論であった。


[21頁]   三 田中義一陸相の満蒙除外論 目次に戻る
 これに対して、田中陸相は、アメリカの提議はただ「容易ニ時世ノ変遷ヲ名義」としているだけで、真の狙いは対日抑止政策にあるので、日本もこれに対抗すべく、新四国借款団からの「脱退ヲ賭シテ」も地域概括主義を主張して、満蒙における特殊権益の拡張をはかるべきだと論じた。彼に言わせれば、列挙主義すら「勢力範囲ノ撤廃ニ同意ノ痕跡ヲ遺ス嫌」があるので、断固排斥するべきものであった(48)
 原首相はまず両者の言い分にそれぞれ理のあることを認めて、次のような裁定を下した。
 「此問題は今日直に究極の決心をなす事を要するやと云へば、尚ほ余地あり、故に出来得る丈先づ前論 〔列挙主義〕 を主張 〔し〕 ……可成手切れとならざる範囲に於て之を試むべし(49)」。

   四 満蒙特殊権益と日米協調 目次に戻る
 こうして日本政府は、この原首相の裁定により、勢力範囲主義を完全に放棄する伊東の「満蒙除外無用論」と、勢力範囲主義そのものである田中の「地域概括的満蒙除外論」の両極端を排して、暖昧な列挙主義的満蒙除外論という中間策を列国に提案して、これを受け入れさせることに成功したのである。原はこの解決を次のように自画自賛している。
 「此借款団問題は随分年月を費したるも我に於ては満蒙は我勢力範囲なりと漠然主張し居たるに過ぎざりしものが、今回の借款団解決にて具体的に列国の承認を得たる事にて将来の為我利益多しと思ふ(50)」。
 これは原の独りよがりではなかった。アメリカ政府からも、「本問題ノ解決ハ両国協調ノ主義ニ新紀元ヲ開クモ[22頁]ノナリ」という祝電が届いたのである(51)
 このように巧妙な原首相の外交・内政手腕によって、満蒙特殊権益の維持と日米協調の保持とは辛うじて調和しえたが、前者の維持と日中友好の保持との調和は、より一層困難な課題であった。特に中国の内争が別天地満州に波及して、日本国内に満蒙秩序維持論争、満蒙赤化論争が巻き起こって来ると、日中友好との調和の可能性は、益々難しくなって行く。次にこの点に関して、一九二五(大正一四)年末の郭松齢事件に対する幣原外交をめぐる、政友会の小川平吉と幣原喜重郎外相の論争を見てみることにしよう(52)

   五 満蒙秩序維持の責任者 目次に戻る
 郭松齢の反乱が鎮圧されてまもない一九二六年一月に開かれた帝国議会で、幣原外相は事件に触れて、当初の方針どおり内閣は絶対不干渉政策を貫徹し、かつ日本の満蒙権益を十分に擁護しえたと自画自賛した。この外相演説に対して、田中義一を総裁に迎え、護憲三派から離脱して野党化していた政友会の小川平吉が衆議院で行った質疑は、政友会全体の幣原対支外交批判を代表していた(53)
 幣原と小川は、満蒙の重要性と特殊性の認識においては一致していた。両者とも満蒙権益が国家の安危と生存にかかわる死活的な問題であると認めていた。また、満蒙が日本国民にとって同胞一〇万人の血が流された歴史的に特殊な意味をもつ地域であることも認めていた。だがこの認識から、小川が満蒙は日本にとっては「単純ナル外国ノ領土」ではないと強調したのに対して、幣原は満蒙はあくまでも「支那ノ主権ニ属スル場所」であると指摘した。
 この不一致からさらに、満蒙の秩序維持の責任者は誰かという問題をめぐる対立が生じる。小川は満蒙が単な[23頁]る外国領土ではないという結論と、中国本部の内乱を鎮圧できないでいる中国政府に満蒙の秩序維持能力などないという認識とから、満蒙の秩序維持は「我ガ帝国政府ノ責任」であると主張した。
 これに対して幣原は、中国の内乱は革命に付随する一時的な生みの苦しみだという評価と、満蒙が中国の主権下にあるという国際法的認識とから、満蒙の秩序維持は「当然ニ支那ノ責任」であると主張した。

   六 満蒙秩序紊乱の認定基準 目次に戻る
 もっとも、幣原外相自身も満蒙の平和秩序を日本にとっての「無形ノ利益」と認めていたので、たとえ満蒙が「無政府状態」に陥ったとしても、何もしないとは言っていない。それどころか、満州における兵乱の性質・範囲・時期いかんによっては決して「晏如」としているわけにはいかないと明言し、いざというときには「無形ノ利益」擁護のための兵力の使用も辞さないことを示唆している。
 そこで、どのような状態になれば「無形ノ利益」が損なわれたと判断するのか、これが本問の核心に触れる質問となってくる。この点に関する幣原と小川の判断基準がもし一致していれば、満蒙秩序維持の責任者に関する対立はほとんど無意味なものとなる。だが、実際には両者の秩序紊乱の認定基準は大きく異なっていた。そしてこの違いこそが、幣原と小川の対立を決定的なものにしたのである。
 小川は郭軍が満州に入ったこと自体を重大視して、軍隊の満州への侵入↓満州での戦争↓満州の秩序攪乱↓日本の「康寧」への脅威、という一直線の連続的な過程を必然的なものと想定した。それゆえ、彼は軍隊の満州への侵入そのものを防止するのが、日本の責任であると論じた。
 これに対して幣原は、小川の想定をあまりにも短絡的と拒絶する。彼は、日本の「康寧」は小川が言うように[24頁]満州に軍隊が侵入したくらいで危うくなるほど基盤の脆弱なものではないと断定し、また今回の郭軍の侵入によって、さらにはそれに続く張軍との交戦によってすら、満州の秩序が攪乱されて日本の「無形ノ利益」が損なわれたとは認めがたいと反駁した。さらに、侵入阻止策はまさに内政干渉そのものにあたるので、幣原外交の採用しえない性質のものであると断言した。

   七 民族的覚醒か統治無能力か 目次に戻る
 以上のように満蒙における兵乱と秩序紊乱との関係に関する両者の観念を、これほどまでに異ならせた最大の要因は、中国本部で現在進行中の内乱の性質を両者がどのようにとらえていたかであった。幣原は、先にみたように、中国本部の内乱も満蒙の内乱も単なる軍閥闘争ではなくて、その背景には近年顕著になりつつある中国人の政治的覚醒があるととらえていた。そして、この民族的覚醒は近い将来中国の統一を実現するであろうが、現下の内乱はその国家統一に不可避的に付随する一時的な生みの苦しみであると見ていた。
 これに対して小川にとっては、中国本部の内乱は中国人の統治能力の無さを示す以外の何物でもなく、特に近年その内乱を激化させているのは、中国人の政治的覚醒などではなくて、ソ連に操られた一部の赤化分子の跳梁跋扈であった。

   八 小川平吉の満蒙赤化論と援張論 目次に戻る
 小川が言うには、近来ソ連は、アジア諸国を侵略している、すでに外蒙古を支配下に置き、北満の赤化を画策し、今や「広東政府ノ実権ヲ握リ」、馮玉祥の「国民軍ヲ援ケ」、さらには「郭松齢氏ヲ援ケ」て張作霖に反抗さ[25頁]せた。その郭軍が満州に侵入した当時に感じたという彼の憂慮を次のように振り返っている。
 「此露軍ノ援ケヲ得テ満洲ニ侵入シタ所ノ郭松齢軍……此人ガ満洲ノ天地ヲ支配スルニ至ツタナラバ、……万一郭松齢軍ガ奉天ヲ占領シタ日ニ想到致シマシタナラバ、露国ノ赤化ノ勢力ノ活動、満洲在留人民ノ不安、延テ我ガ朝鮮ノ統治ト云フモノハ如何様ニナルカ、吾ハ実ニ此点ニ想ヒ及ボシテ、洵ニ憂慮ニ堪ヘナカッタ」。 要するに、小川の満蒙権益擁護のための干渉論は、治安秩序維持の責任者としての日本自身の直接介入と、防共のための援張策という間接介入とから成っており、その議論の基礎には、軍隊の満州侵入↓満州での戦争↓満州の秩序攪乱・満蒙特殊権益の消滅↓朝鮮統治の危機↓日本の国防と生存への脅威、という一直線の連続的想定と、侵略的赤露=国民党=国民軍=反張作霖の郭松齢という反共的四位一体観があったのである。

   九 幣原喜重郎外相の反論 目次に戻る
 このような赤化の脅威と結び付いた新装の援張論に対する幣原外相の考えはどうであっただろうか。一九二五年の日ソ基本条約の推進者であった幣原は、条約調印以来のソ連の対日姿勢を友好的と高く評価していた。
 さらに幣原は、北満へのソ連の侵略計画なるものについては、単なる「風説」にすぎないと否定した。次に広東政府がソ連の傀儡であるかという点についても、同政府には共産主義者もいるが、これでもって「広東ノ永遠ノ制度ガ確立シタ」と判断するのは早計であると、この時期の国民党内の左右対立の行方の不確実性を的確に洞察していた。
 馮玉祥の国民軍とソ連の関係については、幣原は、国民軍の顧問としてロシア人将校がいることは事実だが、これをもって国民軍が赤化しているとみるのは早計であると言い、また同軍の顧問には日本人将校も含まれてい[26頁]ると指摘している。最後に郭松齢についても、幣原は、郭が赤化をもくろんでいるという証拠は何もないと主張し、郭の満州支配は同地域の赤化につながるという小川説を退けた。
 以上のように、幣原にとって四位一体論は、まったく根拠が不十分な風説、憶説にすぎなかったので、小川にこれをもって援張策の採用を迫られても、自説たる不干渉主義を改める必要をまったく感じなかった。
 ゆえに彼は、郭松齢事件の際も第二次奉直戦争のときと同じ論理で援張策を否定した。すなわち、満州の統治者は張であろうと郭であろうと、日本は「正当手段」によって満蒙権益を十分に擁護できるので、内政不干渉主義を貫くことによって、中国国民全体の恨みを買わぬように、列国の猜疑を招かぬようにするのが、日本の国益に適う、と。

   十 南京事件と幣原外交の退場 目次に戻る
 このように両者の議論は平行線をたどり、接点を見いだせないまま終わるのであるが、これ以後、満蒙特殊権益をめぐる中国本土と現地満州の情勢も、また日本国内の状況も、幣原外交に不利な方向に傾いて行く。幣原・小川論争があった年、すなわち大正最後の年の夏、国民党の北伐が始まり、明くる一九二七(昭和二)年の春には南京事件が勃発する。この事件を境に幣原外交は世論に見放されて行く。革命軍兵土による日本領事館襲撃の報が扇動的な新聞によって針小棒大に伝えられ、また政友会がこれを政争の具として利用して政府攻撃運動を展開すると、世論は沸騰し、幣原軟弱外交批判の声は急激に高まった。
 このような状況の中で四月一七日に開かれた枢密院会議は、台湾銀行救済の緊急勅令が議題であったにもかかわらず、伊東巳代治顧問官は南京事件に関する痛烈な幣原外交批判を展開し、「現内閣ハ一銀行一商店ノ救済ニ急[27頁]ニシテ支那在留邦民ノ保護ニ付何等策ヲ施サス」と決め付けた(54)。結局、緊急勅令案は多数でもって否決されてしまい、即日、若槻内閣の総辞職となった。

   十一 田中外交の登場と森恪の演説 目次に戻る
 こうして「大正」の閉幕と踵を接するように第一次幣原外交は退場し、代わって積極・強硬・自主を売り物にする田中外交が登場する。新外務次官に就任した政友会の森恪は、早速、外務省の事務官を一堂に集めて演説を行った。このときの模様を木村鋭市亜細亜局長は、次のように語っている。
 「森君は外務省に来ると、直ぐ事務次官以下省内の事務官を集めて、対支外交の刷新、積極政策の遂行について一席講演して、郭松齢事件に対する前内閣の消極政策を非難し、前内閣が郭松齢の山海関突破を許したことが不都合だ。満蒙の特殊権益の擁護について何等積極的に行動しなかつたことは怪しからぬ。南京事件の如き不祥事件の勃発に対しても、直ちに居留民の保護、支那膺懲の軍を起さなかったことを攻撃するといふ風で、従来の外務省の軟弱振りを攻撃して、気焔当るべからざるものがあった(55)」。
 「昭和」の開幕を告げるこの森演説は、第一次世界大戦後には優勢に見えた、伊藤博文以来の国際協調論の敗勢、児玉源太郎以来の勢力範囲論の勝勢を象徴しているように聞こえる。