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2012年01月23日
帝塚山大学考古学研究所・附属博物館シンポジウム「論戦 有間皇子を考える」を開催しました

 

討論の様子.JPG

帝塚山大学考古学研究所では、歴史考古学研究会で一年間取り上げてきたテーマについて、各地の研究者にご協力いただき、附属博物館と共催でシンポジウムを開催しています。今年度は、「論戦 有間皇子を考える」をテーマに1月22日、本学東生駒キャンパスにて開催いたしました。

 

シンポジウムは、森郁夫附属博物館長および、有間皇子を顕彰する会 山本順英会長の挨拶を皮切りに、佐藤純一氏(白浜町教育委員会)、木場幸弘氏(高取町教育委員会)、本学人文学部の鷺森浩幸教授、清水昭博准教授、甲斐弓子特別研究員が、それぞれの切り口で、有間皇子について発表し、その後、森教授の司会により、それぞれの発表内容について討論しました。

佐藤氏の発表1.JPGまず、佐藤氏は、「有間皇子と白浜の地」と題して、火雨塚古墳や熊野三社神社境内など、白浜町の主な文化財を紹介した上で、牟婁温(むろのゆ 現在の白浜町の湯崎温泉を指すと考えられている)が、日本書紀第26巻斉明天皇3年9月の有間皇子の段でその名が見られることにふれ、有間皇子と白浜の地の関係性について、時系列に整理しながら紹介しました。

 

続いて、有間皇子の宮殿の場所について、木場氏と清水准教授がそれぞれの見解を示しました。

木場氏の発表.JPG木場氏は、「有間皇子の宮殿は高取の地」と題して、高取町にある市尾遺跡の平成21年の現地調査をもとに、論を展開。市尾遺跡から6棟の大壁建物と2棟の堀立柱建物が検出されたことから、大壁建物は、百済からの渡来人及び渡来系氏族に纏わる建物で、5世紀後半から6世紀代に作られたとされており、市尾周辺に百済系渡来人が集住したのではないかとの見解を示しました。また、「市尾(いちお)」が、かつて「いちのお」と呼ばれており、有間皇子の宮殿の場所「市経家(いちふのいえ)」と類似することから、市尾遺跡は有間皇子に関する遺跡跡ではないか、と発表しました。

 

清水准教授の発表.JPG一方、清水准教授は、昨年度のシンポジウム「有間皇子を考える」で、新たな見解を示したように、「有間皇子の宮殿は軽の地」と題して、有間皇子の宮殿は、橿原市久米町の丈六北・南遺跡周辺にあったのではないか、と発表。

有間皇子の宮殿は、「日本書記」に「市経家(いちふのいえ)」と記されており、地名から、生駒市の壱分町や高取町市尾が有力候補地というのが定説ですが、「市は市場、経は界(さかい)の意味があることから、「市の周辺」というような意味ではないか、と指摘し、有間皇子の父、孝徳天皇の宮殿が軽の地に置かれ、古代の軽市(かるいち)に近いことを考慮すると、孝徳天皇が亡くなった後、土地は有間皇子に引き継がれて市経家と呼ばれ、また、軽市は橿原市の丈六北・南遺跡が候補地で、近鉄橿原神宮前駅の東側で建物跡などが見つかっており、有間皇子と蘇我赤兄が話し合ったその夜に、有間皇子は宮殿を囲まれたのであれば、宮殿の場所は、飛鳥に近い丈六北・南遺跡ではないか、との見解を示しました。

 

そして次に、有間皇子の事件の背景について、鷺森教授と甲斐特別研究員が発表しました。

 

鷺森先生の発表の様子.JPGまず、古代史を専門とする鷺森教授は、「有間皇子の事件の背景は皇位継承問題」と題して、当時の皇位継承の原理についての諸説を紹介した上で、当時、皇位継承の原理はきちんと固まっておらず、状況によって様々な形態をとってきたのではないか、と提言しました。そして、中大兄皇子の皇太子の時期が異様に長いことに着目し、有間皇子の事件は、中大兄皇子が天皇に即位した後、最も皇位継承の可能性の高い有間皇子を皇太子に迎えるのではなく、自分の息子 建王や弟の大海皇子を皇太子にしたいと考えていたため、有間皇子の立太子の可能性を消滅させるためにおこったのではないかと発表しました。

甲斐先生による発表.JPG一方、甲斐特別研究員は、「有間皇子事件の背景は、中大兄皇子への権力集中」と題して、発表を行い、まず、当時の国際情勢を踏まえた上で、宮殿の位置から、孝徳天皇と中大兄皇子の外交政策に違いがあったのではないかと指摘しました。当時、東アジア情勢が不安定であったことから、中大兄皇子は戦いに備えて、有間皇子が所有していた武器の材料となる鉱物の産地である有馬や白浜の地を没収し、権力を集中させることや、中大兄皇子と有間皇子のそれぞれの側近がそれぞれ神祇を司る中臣氏と忌部氏であったことから、側近同士の職掌と権力争いが事件の起因となったのではないかという新たな別の見解を示しました。

そして、休憩を挟んで、討論が行われ、それぞれの見解に対する質問や、補足説明があり、終盤に向けて、シンポジウムは更に盛り上がりを見せました。

今回のシンポジウムには、228名の方が参加し、発表者らの新たな見解を含む諸説に熱心に耳を傾け、メモを取っていました。帝塚山大学考古学研究所及び附属博物館では、来年度もシンポジウムを開催して研究成果をご報告する予定です。また、毎月第2・4土曜日の午後からは、公開講座も開講しています。詳しくはこちら